43 御子は父の命を持ってお見えになります
ネヘ9:6 「ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。
ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
ヨハネ1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
ヨハネ1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
ヨハネ1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
ヨハネ1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
ヨハネ5:21 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
ヨハネ5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
ヨハネ5:25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が來ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。
ヨハネ5:26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに來ることはありません。
ヨハネ14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
ヨハネ14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
ヨハネ14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。
ヨハネ20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
ロマ8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に來るものも、力ある者も、
ロマ8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト․イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
ロマ11:36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。ア-メン。
1コリ8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス․キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。
1コリ15:28 しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。
エフェ1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、
エフェ1:10 時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、
エフェ4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。
コロ1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
コロ1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方(プロトトコス長子)です。
コロ1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
コロ1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
コロ1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方(プロトトコス長子)です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。
コロ1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
コロ1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
コロ3:11 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。
ヘブ1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
1ヨハ1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1ヨハ1:2 ―このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。―
1ヨハ5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
1ヨハ5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
1ヨハ5:20 しかし、神の御子が來て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス․キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
† 神様は神様の中に被造物を創造されました。被造物は神様の中にのみ存在します。神様は神様の中に時間と空間を創造されました。被造物は時空間内にのみ存在します。時間の中だけに存在する被造物たちに、神様が自由意志をくださいました。したがって、被造物は選択できます。
† 被造物は神様に服従することを選ぶことができます。隣人を愛する被造物は永遠に生きます。被造物は神様に逆らうことを選ぶことができます。隣人を踏みにじる被造物は火の池に投げ込まれます。神様ご自身が被造物となられました。神様に服従する被造物は、被造物となられた神様に服従するでしょう。神様に逆らう被造物は、被造物となられた神様に逆らうでしょう。神様がすぐ前にいらっしゃるので、神様に服従するか服従しないかがあまりにも明らかに現れます。御子に服従するかどうかを通じ、父に服従するかどうかが証明されます。神様に服従しない被造物は火の池に投げ込まれます。
† 被造物が永遠に生きることができる唯一の道は、神様に服従する道だけです。被造物が永遠に生きることができる唯一の道は、被造物となられた神様に服従する道だけです[1]。神様は被造物が永遠に生きることができる他の道を被造物に与えられませんでした[2]。それで、御子はすなわち道であり、真理であり、命です[3]。
† 被造物は神様をお会いできません。ですから、神様ご自身が被造物となられ、被造物に近づきます。神様が被造物に近づきました。今、被造物は神様を見ることができます。今、被造物は神様に近づくことができます。神様ご自身が被造物となられたので、被造物は今、神様に近づくことができます。神様に近づきたいなら、被造物となられた神様に近づくことができます。私たちは今、耳で神様の声を聞くことができ、目で神様を見ることができ、手で神様に触れることができます。
† 御子は愛の戒めで支配されます。したがって、御子に服従することは愛の戒めを守ることです[4]。愛の戒めを守る者にとって、戒めは生命の法であります[5]。愛の戒めを破る者にとって、戒めは罪を定める法であります[6]。戒めを破る者は戒めによって罪に定められ、火の池に投げ込まれます[7]。御子は、御子に服従する者たちには命です。御子は、御子を逆らう者たちには裁きです。戒めは、神様と隣人を愛する者たちには命の木になります。戒めは、神様と隣人を愛さない者たちには善悪知識の木となります[8]。
† 御子はいつもそのままです。永遠の命につながるか火の池に投げ込まれるかは、被造物のそれぞれが選ぶものであります。愛の戒めは変わりません。戒めを守るかどうかは、被造物のそれぞれが選ぶのです。しかし、被造物は自分の力で戒めを守ることができません。さらに、アダムは呪われた肉体まで着ています。したがって、アダムはさらに自らの力で戒めを守ることができません[9]。
アダムが戒めを守るためには,アダムは十字架を背負わなければなりません[10]。アダムが神様と隣人を愛するためには、アダムは自分を捨てなければなりません。アダムが命の木の果実を食べるためには、アダムは御子に従わなければなりません。十字架を負うアダムに、聖霊神様がお見えになります[11]。聖霊神様は生命の法です[12]。聖霊神様に服従する者は今、呪われた肉体から出てくる肉の欲望に打ち勝つことができます[13]。聖霊神様に服従する者は[14]、もう神様と隣人を愛することができます[15]。
[1] ヨハネ17:2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
[2] 使徒4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
[3] ヨハネ11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
ヨハネ11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
[4] ヨハネ3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に來ているのに、人人は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
ヨハネ3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに來ない。
ヨハネ3:21 しかし、真理を行なう者は、光のほうに來る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
ヨハネ14:15 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
[5] ロマ7:12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
ロマ7:13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
[6] ロマ7:10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
[7] マルコ9:47 もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
マルコ9:48 そこでは、彼らを食ううじは、所きることがなく、火は消えることがありません。
[8] 創2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
[9] ロマ7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
ロマ7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
ロマ7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
ロマ7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
ロマ7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
ロマ7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
ロマ7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
[10] マタイ16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて來たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて來なさい。
マタイ16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
マタイ16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
[11] 使徒5:32 私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」
2コリ10:4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
2コリ10:5 私たちは、さまざまの思辯と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
[12] ロマ8:1 こういうわけで、今は、キリスト․イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
ロマ8:2 なぜなら、キリスト․イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
黙2:7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』
[13] ロマ8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
ロマ8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
[14] ガラ3:2 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。
ガラ3:3 あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。
ガラ3:4 あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。
[15] ロマ5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。