68 主イエス様は戒めそのものです
マタイ5:17 わたしが來たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために來たのです。
ヨハネ5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
ロマ10:4 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
ヘブ10:1 律法には、後に來るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて來る人人を、完全にすることができないのです。
† 主イエス様はすなわち真の律法です。モーセを通して主イエス様を説明してくださったのが律法です[1]。主イエス様の御言葉と行ないがすなわち律法です[2]。律法を正しく知れば、主イエス様がお見えになった時、主イエス様を知ることができます[3]。主イエス様が親しく来れば、主イエス様を説明してくれた影は意味がなくなります。
† 主イエス様は律法を完全に成されます。正確に言うと、主イエス様はすなわち完全な律法です。完全な律法がお見えになると、完全な律法を知るようにおっしゃった説明は消えます。完全な律法が来ました。今、私たちは完全な律法に従うだけで律法を守ることができます[4]。今、私たちは完全な律法の影に従う必要はありません。
† 主イエス様は実体であり、小羊は実体ではありません。小羊は主イエス様の影だっただけです。主イエス様が供え物にならないなら、小羊をいくら多く屠っても贖いは成されません。主イエス様が祭りの順序で働かないならば、祭りをいくら正確に守っても祭りは意味がありません。
† 日と月と季節は主イエス様の時刻表にすぎません[5]。模型の神殿は主イエス様の象徴に過ぎません[6]。主イエス様なしでは、御使いの天の実際の神殿もゴミに過ぎません。神様がいらっしゃらない神殿に何が意味を持つのでしょうか[7]!主イエス様はすなわち神殿です[8]。主イエス様がすなわち神殿に座った神様です[9]。実体がない影は何の意味もないのです。
† 主イエス様がすなわち被造物が守らなければならない戒めです[10]。主イエス様に服従することが、被造物が守らなければならない戒めであります[11]。主イエス様が神様を愛されるように、私たちも神様を愛さなければなりません。主イエス様が隣人を愛されるように、私たちも隣人を愛しなければなりません[12]。主イエス様はすなわち神様の形です[13]。御使いと人間が神様の形になるためには主イエス様の形にならなければなりません[14]。御使いと人間が神様の形になるためには主イエス様に似ていなければなりません。
御使いや人間は時間の中にのみ存在します。御使いや人間は、神様が呼ばれる前にはなかったものです。神様は時空間を存続させられます。御使いや人間は神様をお会いできません。神様を見ることができないので、御使いや人間は神様に似ることができません。御使いや人間は神様の形になることができません。御使いや人間は神様と隣人を愛することができません。ですから、神様ご自身が被造物となられます[15]。神様が被造物となられたとき[16]、被造物となられた神様を知ってもらうよう人間に律法をくださったのです。人間としてお見えになった神様は復活されて御使いのようになられます[17]。御使いたちは御使いのようになられた神様を礼拝します[18]。
[1] ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから來られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
[2] ヨハネ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
[3] ガラ3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
ガラ3:25 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
[4] 1ペト2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
1ペト2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
1ペト2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
[5] ガラ4:9 ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
ガラ4:10 あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。
ガラ4:11 あなたがたのために私の勞したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています。
[6] マタイ12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
マタイ12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
マタイ12:7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
マタイ12:8 人の子は安息日の主です。」
[7] マタイ23:17 愚かで、目の見えぬ人たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。
マタイ23:18 また、こう言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
マタイ23:19 目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。
マタイ23:20 ですから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。
マタイ23:21 また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。
マタイ23:22 天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。
[8] ヨハネ2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
ヨハネ2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
[9] 黙5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
黙5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
黙5:14 また、四つの生き物はア-メンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。
[10] ヨハネ5:23 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。
[11] 1ヨハ3:23 神の命令とは、私たちが御子イエス․キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。
[12] 1ヨハ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
1ヨハ4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
[13] 2コリ4:4 そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
[14] ガラ4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
[15] ヨハネ14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。
[16] 1ヨハ1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1ヨハ1:2 ―このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。―
[17] ルカ20:35 次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から复活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。
ルカ20:36 彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、复活の子として神の子どもだからです。
[18] ルカ24:42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、
ルカ24:43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
ルカ24:44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモ-セの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
ルカ24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、