創3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
† もしサタンがアダムを直接攻撃したなら、アダムはおそらくサタンの惑わしに勝ったでしょう。しかしサタンはアダムを直接攻撃しませんでした。サタンはエバを通してアダムを倒しました。
† サタンはアダムの弱点がエバであることを知っていました。しかし、アダムは自分の弱点がエバであることを知りませんでした。禁断の果実を食べる前にも、アダムはすでにエバという欲を抱いていました。アダムはすでに神様よりもエバを愛していました。アダムはエバが禁断の果実を与えればそれを食べる状態にありました[1]。アダムはすでに神様の戒めを破る状態にありました[2]。
† エバが隣人を踏みにじると、アダムはエバを止めることができなかったでしょう[3]。エバが犯罪に固執した場合、アダムはエバを審判できなかったでしょう[4]。その状態でアダムが神様の裁き台の前にいると、アダムは死にます[5]。ですから、神様はアダムの堕落した心を表わします。
† アダムの禁断の果実はエバでした。神様はアダムが罪を捨てることを望みました。それゆえ、神様は禁断の果実を通してアダムの心を明らかにします[6]。
† 禁断の果実を食べようとしない者が無理やり禁断の果実を食べることになりません。禁断の果実を食べようとしない者は禁断の果実を拒否します。禁断の果実を食べようとする者なので、禁断の果実を食べるのです。禁断の果実を食べて食べないこと自体が重要なものではありません。禁断の果実を食べようとしない者になることが重要なのです[7]。犯罪して犯罪しないこと自体が重要なものではありません。犯罪しないようにする者になることが重要なのです[8]。犯罪しても再び犯罪しないようにする者になることが重要なのです。
† 神様はアダムが神様よりもエバを愛することをすでにご存じでいらっしゃいました。神様はアダムがエバによってサタンに負けることをすでにご存じでいらっしゃいました。神様はアダムがエデンから追い出されることをすでにご存じでいらっしゃいました。神様は最後のアダムとしてお見えになることをすでにあらかじめ定められました[9]。神様はメシヤとしてお見えになることを先にあらかじめ定められた後、創造を始められました[10]。
[1] 黙3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
[2] 創2:25 そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。
[3] 王上21:6 そこで、アハブは彼女に言った。「私がイズレエル人ナボテに『金を払うからあなたのぶどう畑を譲ってほしい。それとも、あなたが望むなら、その代わりのぶどう畑をやってもよい。』と言ったのに、彼は『私のぶどう畑はあなたに譲れません。』と答えたからだ。」
王上21:7 妻イゼベルは彼に言った。「今、あなたはイスラエルの王権をとっているのでしょう。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。この私がイズレエル人ナボテのぶどう畑をあなたのために手に入れてあげましょう。」
[4] 王上21:25 アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。
[5] 出33:19 主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
出33:20 また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
[6] ロマ7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
[7] ルカ15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
ルカ15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
ルカ15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
[8] ロマ6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
ロマ6:2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
ロマ6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト․イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
ロマ6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
[9] エフェ1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
エフェ1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス․キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
[10] エフェ1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、
エフェ1:10 時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、
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