出26:31 青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければならない。
出26:32 これを、四つの銀の台座の上に据えられ、その鈎が金でできている、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱につける。
出26:33 その垂れ幕を留め金の下に掛け、その垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。
出26:36 天幕の入口のために、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で刺繍をした幕を作る。
出26:37 その幕のためにアカシヤ材の柱五本を作り、これに金をかぶせる。それの鈎も金で、また、それらの柱のために青銅の台座五つを鋳造する。
マタイ7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
マタイ7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
マタイ16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて來たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて來なさい。
マタイ16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
ヨハネ5:2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
ヨハネ5:3 その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。
ヨハネ5:4 [本節欠如]
ヨハネ5:5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
ヨハネ10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
ヨハネ10:8 わたしの前に來た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
ヨハネ10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに來ることはありません。
ヨハネ14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
使徒3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
使徒3:2 すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて來た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
ヘブ10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
ヘブ10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
† 主イエス様を通して神殿の庭に入ります。主イエス様を通して神殿に入ります。主イエス様を通して至聖所に入ります。主イエス様を通して御座に行きます。主イエス様を通して命を得ます。命に導く他の門はありません[1]。
† 神様は至聖所にいらっしゃいます。無断で神様に行く者は死にます[2]。主イエス様を通してのみ神様に行くことができます。主イエス様を通してだけ至聖所の垂れ幕が裂けられます[3]。主イエス様だけが至聖所に入る門です。主イエス様のみを通して御座に行き、命を得ます。
† 至聖所の垂れ幕は青糸紫糸緋糸と亜麻の撚糸で作りました。至聖所の垂れ幕にはケルビムを刺繍しました。実際の至聖所をケルビムが守っているという意味です[4]。
† 聖所の入り口幕も青糸紫糸緋糸と亜麻の撚糸で作りました。聖所の入り口幕にはケルビムを刺繍したという言葉がありません。しかし、幕屋はケルビムを刺繍した布で覆われています[5]。実際の神殿全体でケルビムが活動するという意味です。
† 洗盤すなわち青銅の海はガラスの海を象徴します。青銅の海は12匹の牛が支えています。この牛はケルビムを象徴する可能性が高いです[6]。青銅の海を通って神殿に入ります。ガラスの海を通って実際の神殿に入ります。堕落した御使いたちはガラスの海の下に閉じ込められています。堕落した御使いたちは燔祭の祭壇に閉じ込められています。ハデスの中では神様に服従する御使いたちも活動し[7]、堕落した御使いたちも活動します[8]。
† 傷ついた者は神殿に入ることができません。罪のある者は神殿に入ることができません[9]。罪のある人はガラスの海を通過できません。罪のある者は捨てられるしかありません。罪のある者は火の池に投げ込まれるしかありません。火の池に投げ込まれるしかない罪人たちに、神殿が親しく来ます。
† ベテスダが見えるが、ベテスダ(憐れみの家)に入る力はありません。治癒が見えるが、治癒を受けることはできません。律法は分かるが、律法を守る力はありません[10]。ベテスダに入ることができない罪人たちに、ベテスダが親しく来ます。憐れみを受けられない罪人たちに、憐れみの主が親しく来ます[11]。律法を守る力がない罪人たちに、律法が親しく来ます[12]。主イエス様を通して、律法が彼らにとって命の法となります[13]。
† 私たちは皆罪人です。私たちは誰も神殿に入ることができません。私たちはみんな盲人、足なえ、中風の者です。私たちは誰も神殿の中で働くことができません。私たち自身の力では、心でまで律法を守ることができません[14]。律法の前で絶望している私たちに、律法が親しく来ます[15]。
† 主イエス様は律法の実体です[16]。真の律法を通して[17]、私たちは今、心でまで律法を守ります[18]。律法を守るので、私たちは今、ガラスの海を通過することができます[19]。神様と隣人を愛することで、私たちは今、神殿に入ることができます。
命の門が前にいます。しかし、誰もが狭い門に向かうわけではありません。狭い門に入る者だけが命を得ます[20]。主イエス様に服従する者だけが命を得ます[21]。主イエス様に服従する者だけが主イエス様の羊であります[22]。主イエス様は永遠の命と火の池の基準です[23]。
[1] 使徒4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
[2] レビ16:2 主はモ-セに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現われるからである。
[3] ルカ23:45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。
[4] 創3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
[5] 出26:1 幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければならない。
[6] エゼ10:14 そのおのおのには四つの顔があり、第一の顔はケルブの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、第四の顔は鷲の顔であった。
エゼ1:10 彼らの顔かたちは、人間の顔であり、四つとも、右側に獅子の顔があり、四つとも、左側に牛の顔があり、四つとも、うしろに鷲の顔があった。
[7] 使徒12:7 すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。
使徒12:8 そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい。」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について來なさい。」と言った。
[8] エフェ6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
[9] レビ21:23 ただし、垂れ幕の所に行ってはならない。祭壇に近寄ってはならない。彼は身に欠陥があるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしがそれを聖別する主だからである。」
[10] ロマ7:10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
ロマ7:11 それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
ロマ7:12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
[11] マタイ12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
マタイ12:7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
マタイ12:8 人の子は安息日の主です。」
[12] マタイ5:17 わたしが來たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために來たのです。
[13] ロマ8:1 こういうわけで、今は、キリスト․イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
ロマ8:2 なぜなら、キリスト․イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
[14] ロマ3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人人に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
ロマ3:20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
[15] ガラ3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
[16] ヘブ10:1 律法には、後に來るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて來る人人を、完全にすることができないのです。
[17] 1ヨハ1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1ヨハ1:2 ―このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。―
[18] 1コリ9:21 律法を持たない人々に対しては、―私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、―律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
[19] 黙15:2 私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。
[20] 1ヨハ5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
1ヨハ5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
[21] ヨハネ3:35 父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。
ヨハネ3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
[22] ヨハネ10:26 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
ヨハネ10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて來ます。
[23] マタイ25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って來るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
マタイ25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
マタイ25:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
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