ア. 火のバプテスマ(血のバプテスマ)
燔祭の祭壇のバプテスマは十字架を象徴したり[1]、火の池を象徴したりします。主イエス様は私たちの呪いを代わりに背負って[2]、十字架で父に捨てられました[3]。したがって、十字架は第1の死を示すようです[4]。火の池は第2の死を表します[5]。第1の死は父から切り離される死です[6]。第2の死は火の池で燃えていく死です。最後まで主イエス様を逆らって第1の死にとどまっている者は、結局第2の死に遭うことになります。第1の死が捨てられる死という見方があり、第2の死が捨てられる死という見方があり得ます。
[見方1] 第1の死=眠り+捨てられる死 / 第2の死=火の池
[見方2] 第1の死=眠り / 第2の死=捨てられる死+火の池
A. 水浴、燔祭の祭壇、過越の祭り
ヨハネ13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
ヘブ9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
ヘブ9:13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人人に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
ヘブ9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
ヘブ9:22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
† 燔祭の祭壇で屠った供え物の血を御座の前に振りかけ、供え物の肉を焼きます[7]。これは十字架のバプテスマを象徴します[8]。十字架の血で災害を避けます。過越の小羊の血で災害を避けます[9]。小羊の血で紅海を渡ります。主イエス様の血でガラスの海を渡ります[10]。燔祭の祭壇の血を通過した者が靑銅の海の水を通過します。ハデスの血を通過した者がガラスの海の水を通過します。過越の祭りは十字架のバプテスマを象徴します[11]。
† 燔祭の祭壇で水浴し、洗盤から手足を洗います。燔祭の祭壇のバプテスマは十字架のバプテスマを象徴します。火のバプテスマは十字架のバプテスマを象徴します。悔い改めない者はバプテスマとは関係ありません[12]。罪を洗わなかった者の罪はそのままであります。罪と分離されていない者は、その罪と共に火の池に投げ込まれます[13]。
† 主イエス様の血で被造界が浄化するようになります[14]。主イエス様の血で被造物が神様の愛を知るようになります[15]。神様の愛を知った被造物は神様を愛するようになります[16]。神様を愛するようになった被造物は犯罪しません[17]。神様を愛するようになった被造物の自由意志は完成されます[18]。神様を愛するようになったアダムは霊的な体を着て御使いのようになります[19]。御使いと御使いのようになったアダムは再び犯罪しません[20]。被造界で罪は消滅されます[21]。創造は完成されます[22]。
† 義なる被造物の自由意志が完成したら、主イエス様は悔い改めない犯罪者を火の池に燃やされます。被造界では再び犯罪は発生しません。悔い改める者たちに、主イエス様の血は救いに注がれます[23]。悔い改めない者たちに、主イエス様の血は裁きに注がれます[24]。主イエス様の血は、隣人を愛する者たちを贖います[25]。主イエス様の血は、隣人を踏みにじる者たちを裁きます[26]。
† 主イエス様の血で、被造界で罪が消滅されます。被造界には神様と隣人を愛する被造物だけが残ります[27]。主イエス様は隣人を踏みにじるすべての犯罪者を火の池に燃やされます[28]。主イエス様の血によって被造界は贖われます[29]。
† 主イエス様の血で水浴した者たちの良心は清潔になります[30]。主イエス様の血でバプテスマを受けた者たちの良心は清潔になります[31]。実際の至聖所に入ることができる血は、主イエス様の血だけです。被造界を贖罪できる血はただ神様自身の血だけです。被造界を贖うことができる命はただ神様自身の命だけです[32]。被造界で罪を消滅させることができる考えは、ただ神様自身の考えだけです[33]。
† 罪は戒めを破るのです[34]。戒めを破った罪を贖うために支払われた対価によって戒めの重さが決定されます。戒めを破った罪を贖うためには、それにふさわしい対価が払われなければなりません。戒めのために支払われた対価と同じく、その戒めは重要であります。一介の被造物の血で罪を贖うことができません。一介の被造物の命で戒めの価値をつけることはできません。一介の被造物だけで戒めの重さを決めることができません。
† 神様は戒めを通して神様の愛を被造界に照らされます[35]。神様は「愛」を通して被造界を存続させることを創世前にあらかじめ定められ、創造を始められました[36]。神様は「戒め」を通して被造界を存続させることを創世前にあらかじめ定められ、創造を始められました[37]。被造界は愛の中でしか存続できません。被造界は戒めの中でのみ存続できます。愛の戒めを離れては、被造界が存続できません。
† 戒めを破った被造物は火の池に投げ込まれます。隣人を踏みにじる被造物は火の池に投げ込まれます。戒めは被造物よりも大切です。犯罪者を閉じ込めたハデスは火の池に投げ込まれます。天地がなくなっても戒めは成し遂げられます[38]。戒めは被造界よりも大切です。
† 互いを殺す被造物は価値がありません[39]。互いを殺す被造界は価値がありません[40]。愛の戒めは、被造界が存続できる理由です。愛の戒めがなければ被造界もありません。したがって、一介の被造物の生命程度で戒めの重さを定めることはできません。戒めを破った罪を贖うことができる唯一の命は、神様自身の命だけです。戒めを破った罪を贖うことができる唯一の血は、神様自身の血だけです。
† 主イエス様の血は戒めの真実さを証明します。主イエス様は死の体を着て戒めを完全に守られました。主イエス様は死に至るまで神様と隣人を愛しました[41]。戒めは被造物が十分に守ることができるのです[42]。戒めを破る犯罪者は死ななければなりません。
† 主イエス様の血は神様の愛を証明します[43]。神様は戒めを破った被造物を救うために神様のすべてを捨てられました。御子は父のすべてです[44]。父は御子のすべてです[45]。戒めを破った被造物を救うために、父と御子はお互いから切れられました[46]。
† 至聖所の御座に血が覆われれば救いと裁きが確定されます。御座に主イエス様の血が覆われると、悔い改める者たちの救いが確定されます。御座に主イエス様の血が覆われると、犯罪に固執する者たちに対する裁きが確定されます[47]。神様の愛と公義を証明できる血は神様自身の血だけです。創造を完成できる血は神様自身の血だけです。被造界を存続させる血は神様自身の血だけです。至聖所の御座に覆われることができる血は神様自身の血だけです。
[1] ルカ12:50 しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。
[2] ガラ3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。
[3] マタイ27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
[4] イザ53:12 それゆえ、わたしは、多くの人人を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに數えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
[5] 黙20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ翔まれた。これが第二の死である。
[6] エフェ2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
エフェ2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
エフェ2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
[7] ヘブ13:11 動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。
ヘブ13:12 ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
レビ16:27 罪のためのいけにえの雄牛と、罪のためのいけにえのやぎで、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に持ち出し、その皮と肉と汚物を火で焼かなければならない。
レビ6:30 しかし、聖所での贖いをするためにその血が会見の天幕に持って行かれた罪のためのいけにえは、食べてはならない。これは火で焼かれなければならない。
[8] 1ヨハ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
エフェ5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
[9] 出12:13 あなたがたのいる家家の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。
[10] 黙15:2 私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。
黙15:3 彼らは、神のしもべモ-セの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。
[11] 出12:5 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
出12:6 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、
出12:7 その血を取り、羊を食べる家家の二本の門柱と、かもいに、それをつける。
[12] ヨハネ9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
[13] エレ4:14 エルサレムよ。救われるために、心を洗って悪を除け。いつまで、あなたの中には邪念が宿っているのか。
[14] コロ1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
[15] 1ヨハ3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、―事実、いま私たちは神の子どもです。―御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
[16] 1ヨハ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
1ヨハ4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
[17] ヨハネ14:15 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
[18] ロマ6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
ロマ6:2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
[19] ルカ20:35 次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から复活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。
ルカ20:36 彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、复活の子として神の子どもだからです。
[20] エフェ1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、
エフェ1:10 時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、
[21] 黙21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
黙21:5 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
[1000年王国の後にサタンがもう一度解き放され、民を惑わすことはありますが、惑わしを通過した聖徒たちと御使いたちの自由意志は復活変化を通してすでに完成されました。]
[22] 創2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
創2:2 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
[23] 2コリ5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
[24] ヘブ10:28 だれでもモ-セの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
ヘブ10:29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
[25] コロ1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
[26] 民35:33 あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。
[27] ヨハネ3:35 父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。
ヨハネ3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
[28] 黙20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ翔まれた。これが第二の死である。
黙20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ翔まれた。
[29] レビ16:13 その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。
レビ16:14 彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。
レビ16:15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持ってはいり、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。
レビ16:16 彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。
[30] 1ペト3:21 そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス․キリストの复活によるものです。
[31] ヘブ9:13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人人に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
ヘブ9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
[32] レビ17:11 なぜなら、肉のいのち(ネペシ魂)は血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのち(ネペシ魂)を祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのち(ネペシ魂)として贖いをするのは血である。
[33] イザ53:12 それゆえ、わたしは、多くの人人を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのち(魂)を死に明け渡し、そむいた人たちとともに數えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
[34] 1ヨハ3:4 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。
[35] ヨハネ15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
[36] エフェ1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
エフェ1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス․キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
[37] エフェ3:9 また、万物を創造された神の中に世世隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。
エフェ3:10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、
エフェ3:11 私たちの主キリスト․イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。
[38] マタイ5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
[39] ロマ8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
ロマ8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
ロマ8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
ロマ8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
[40] ホセ4:1 イスラエル人よ。主のことばを聞け。主はこの地に住む者と言い争われる。この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ。
ホセ4:2 ただ、のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。
ホセ4:3 それゆえ、この地は喪に服し、ここに住む者はみな、野の獣、空の鳥とともに打ちしおれ、海の魚さえも絶え果てる。
[41] ルカ23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
[42] 使徒7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
使徒7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
[43] ロマ5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
[44] ルカ20:13 ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』
ヨハネ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
ヨハネ3:35 父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。
ヨハネ3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
ヨハネ5:23 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。
[45] ヨハネ6:38 わたしが天から下って來たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。
ヨハネ6:39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
ヨハネ7:28 イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから來たかも知っています。しかし、わたしは自分で來たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。
ヨハネ7:29 わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」
ヨハネ14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。
[46] 創22:7 やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。
[47] 黙15:8 聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその聖所に、はいることができなかった。
レビ16:17 彼が贖いをするために聖所にはいって、再び出て來るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。
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