Ω 復活変化と自由意志 |
アダムは魂的な体を着た魂です。御使いは霊です。アダムは復活変化して霊的な体を着て御使いのようになります。御使いと御使いのようになったアダムは一緒に永遠に生きます。 |
1コリ15:44 血肉の(プシキコス魂的な)からだで蒔かれ、御霊に属する(プネウマチコス霊的な)からだによみがえらされるのです。血肉の(プシキコス魂的な)からだがあるのですから、御霊の(プネウマチコス霊的な)からだもあるのです。 霊は肉と骨を持っていません[1]。御使いは霊です[2]。御使いが霊だけの被造物なら、御使いには体がないでしょう。しかし御使いは食べ物を食べることもあります[3]。人が御使いを見て触れることもできます[4]。御使いを見たことを人を見たと言います[5]。 復活した主イエス様が弟子たちに現れた時と御使いが聖徒たちに現れた時の状況が似ています。御使いは閉鎖された空間の中に現われることができます[6]。霊的な体を着ると閉鎖された空間の中に現れることができます[7]。御使いも食べ物を食べることができます[8]。霊的な体を着ても食べ物を食べることができます[9]。御使いに体があれば、魂的な体ではないでしょう[10]。御使いが果たして霊的な体を着ているのでしょうか? 人は魂です。人の自由意志は人の魂にあります。戒めを守るかどうかを人の魂が決めます。火の池に投げ込まれるのは人の魂と体です[11]。御使いは霊です。御使いの自由意志は御使いの霊にあります。戒めを守るかどうかを御使いの霊が決めます。火の池に投げ込まれるのは御使いの霊です。 人は魂的な体を着ている魂です。御使いは霊です。御使いは体を着ていますか?御使いが体を着ているとしたら、どんな体を着ていますか?魂が復活変化すると霊的な体を着て御使いのようになります[12]。魂が復活変化して霊的な体を着て霊になるという意味なのでしょうか?魂が復活変化すると霊に変わるのでしょうか[13]?復活変化を通して、魂的な体を着た魂が霊的な体を着た霊に変わるのでしょうか?もしそうなら、御使い、すなわち霊も霊的な体を着ているかもしれません。 とにかく、邪悪な魂は裁きの復活によって甦り、体と共に火の池に投げ込まれます。邪悪な魂がどんな体を着るのかは分かりません。魂的な体は土です。魂的な体は火の池に耐えられません。邪悪な魂は犯された罪ほど燃えなければなりません。邪悪な魂は火の池に耐えることができる体を着なければなりません。 邪悪な魂が魂的な体を着て復活するのでしょうか?聖徒は聖霊神様を通して霊的な体を着て復活変化します[14]。聖霊神様を祀らなかった邪悪な魂が果たして霊的な体を着て復活するのでしょうか。邪悪な霊も火の池に投げ込まれます。邪悪な魂も霊的な体を着て復活するのでしょうか? 魂は復活変化して霊的な体を着ます[15]。魂が復活変化すれば御使いのようになります[16]。聖霊神様を通してアダムは復活変化します。聖霊神様が霊的な体の中にも住むかどうかはわかりません。魂的な体に聖霊神様が住むと、魂的な体は神殿となります。もし聖霊神様が霊的な体の中にもいらっしゃるなら、霊的な体も神殿になるでしょう。もし御使いたちが霊的な体を着ているなら、聖霊神様が御使いたちの体の中にも住む可能性があります。 アダムが神様と隣人を愛すると、アダムは復活して霊的な体を着ます。霊的な体は呪われませんでした[17]。霊的な体には肉の欲望がありません[18]。アダムは死の体を着ても神様と隣人を愛しました[19]。隣人を愛するアダムが霊的な体まで着れば、アダムは犯罪しません。 霊的な体を着る前にもアダムの自由意志が完成できると見る見方があり得ます。とにかくアダムが霊的な体まで着るなら、アダムは決して犯罪しません。霊的な体を着たアダムの自由意志は、確実に完成されています。 神様の愛は戒めで被造界に現れます[20]。戒めがなければ、強い者が弱い者を踏みにじます。戒めがなければ弱い者が苦しみます[21]。隣人を踏みにじる被造物は幸せではありません。神様は、被造物が隣人を踏みながらも幸福を感じるように被造物を創造されませんでした。 隣人を踏みにじる被造物は痛いです。彼が悔い改めなければ、彼の苦しみを終わらせる唯一の方法は彼を殺すだけです。犯罪者を殺すことも、神様の愛なのです[22]。ただし、犯罪者は、自分が犯した罪ほど火の池に燃やさなければなりません[23]。踏みつけられる被造物にも踏みにじる被造物にも、審判は愛です。犯罪者が悔い改めを拒んだ場合[24]、彼は裁きを通してのみ罪の苦しみから逃れることができます[25]。 火の池に燃やされると彼の自由意志が完成されません。自由意志は罰として完成されません[26]。もしその自由意志が火の池で焼かれることによってのみ完成される自由意志であるならば、神様はその自由意志をただ殺すでしょう。さらに、自由意志は愛だけで完成されます[27]。神様は十字架の愛を通してのみ自由意志が完成される仕組みで、被造界を存続させています[28]。犯された罪ほど燃やされた後、おそらく彼は非存在に戻りませんか[29]? 神様は公義と慈しみによって被造界を支配しています[30]。神様の愛と公義は戒めで被造界に現れます。神様は愛の戒めで被造界を支配されます[31]。したがって、被造物は隣人を踏みにじることができません。戒めは被造物の幸福です[32]。戒めは被造物を痛みから守ります[33]。 愛の戒めは、被造物がしっかり守ることができるのです[34]。しかし、サタンは戒めが守れないものだと主張します。サタンは、神様が被造物に、被造物が守ることができない戒めを守れと命じられると主張します[35]。 神様は被造物が戒めを守ることができるとおっしゃいます。戒めが守れないのなら、神様は嘘つきになるでしょう[36]。神様は戒めを破る被造物を火の池に燃やされます。戒めが守れないのなら、神様は殺人者になるでしょう[37]。神様が被造物を火の池に燃やすために被造物を創造されたようになってしまいます。戒めが守れないものであれば、戒めは被造物を火の池に燃やして殺す殺人道具になるでしょう。戒めが守れないのなら、神様の愛と公義は偽りでしょう[38]。 戒めが守れないものであれば、戒めは廃止されなければなりません。もし戒めが守れないのなら、神様は被造界を戒めで支配してはならないのです。神様は力で被造界を支配しなければなりません。もし神様が力で被造界を支配しているなら、神様は愛ではないでしょう。 神様が愛である限り、神様は力で被造界を支配されません。戒めで支配されないなら、神様は支配されません。神様が支配されなければ、サタンが支配することができます。戒めだけが廃止されると、サタンが被造界を掌握することができます。戒めだけが廃止されると、サタンが御座に上がることができます。 もちろん、これは愚かなサタンの考えです。戒めが廃止されると、被造物は互いを殺すでしょう。被造物の苦しみを終わらせるために、神様は被造物を消滅させられます。もし神様が被造物を苦しみの中に捨てておけば、神様は愛ではないでしょう。戒めが廃止されると、神様はすべての被造物を消滅させられます。これもやはり愚かな推測です。戒めが廃止される可能性がある場合、創造は当初始まるものでさえ不可能です。神様が全能でなければ、創造は当初から始まることさえありません。神様はすべての時間に同時にいらっしゃいます。 神様と隣人を愛さないのが罪です[39]。戒めを破るのが罪です[40]。戒めを破った罪を死が握ります[41]。ですから犯罪すれば必ず死にます。しかし、戒めを守れば死に握られません。神様と隣人を愛すれば死に握られません。死に打ち勝つと復活変化します[42]。彼の復活変化を通して、彼が戒めを守ったことが証明されています。殉教証人の復活変化を通して、戒めの遵守可能さ、すなわち戒めの真実さが証明されます。 サタンの主張を聞いて、御使いたちに戒めに対する疑いが生じました。サタンの主張を聞いて、御使いたちに神様に対する疑いが生じました。戒めの真実さが証明されると、サタンの主張は偽であることが明らかになります。戒めの真実さが証明されると、御使いたちから疑いが洗われます。殉教証人が復活変化するとき、御使いたちから疑いが洗われます[43]。 今、御使いたちは神様の愛と公義を完全に悟りました。今、御使いたちは神様を躊躇せずに愛するようになりました。今、御使いたちは永遠に神様に反対しません[44]。今、御使いたちから犯罪の可能性が消滅されます。殉教証人が復活変化すると、御使いたちの自由意志が完成されます。最後のアダムの助け手を通して[45]、御使いたちの自由意志が完成されます[46]。御使いたちの自由意志が完成されると、御使いの天が贖われます[47]。 十字架を通して神様の愛と公義が確証されます[48]。十字架を通して、被造物が神様の愛を知るようになります[49]。神様の愛を知れば、神様を愛するようになります[50]。神様を愛すれば、戒めを守ることになります[51]。戒めを守れば、死に打ち勝つことになります。十字架を通して被造物が死に打ち勝つことになります。愛を通して被造物が死に打ち勝つことになります[52]。 主イエス様の血で罪が赦されます[53]。罪の赦しを受けたアダムに聖霊神様がお見えになります[54]。聖霊神様と共に、アダムは神様と隣人を愛しています[55]。聖霊神様を通して、アダムは戒めを守ります[56]。戒めを守り[57]、アダムは死に打ち勝ちます。死に勝ち、アダムは復活変化します。十字架によって、アダムは復活変化します。アダムの復活変化によって、御使いたちの自由意志が完成されます。十字架を通して、御使いたちの自由意志が完成されます。十字架を通して、創造が完成されます[58]。 |
[1] ルカ24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
[2] ヘブ1:14 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人人に仕えるため遣わされたのではありませんか。
[3] 創18:8 それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した小牛を持って來て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。
[4] 創19:15 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」
創19:16 しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。―主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。
[5] ヘブ13:2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人人は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。
ルカ24:4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに來た。
[6] 使徒12:6 ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。
使徒12:7 すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。
[7] ヨハネ20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが來られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
[8] 創19:3 しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中にはいった。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。
[9] ルカ24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
ルカ24:40 [本節欠如]
ルカ24:41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。
ルカ24:42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、
ルカ24:43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
[10] 1コリ15:40 また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、
1コリ15:41 太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個 の星によって栄光が違います。
[11] マタイ10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
[12] ルカ20:35 次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から复活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。
ルカ20:36 彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、复活の子として神の子どもだからです。
[13] 1コリ15:45 聖書に「最初の人アダムは生きた者(プシケ魂)となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊(プネウマ霊)となりました。
[14] ロマ8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト․イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
[15] 2コリ5:4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
[16] マタイ22:30 复活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
[17] 創3:17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
創3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
[18] ガラ5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
[19] ロマ7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
ロマ7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
ロマ7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
[20] ロマ13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。
[21] コヘ4:1 私は再び、日の下で行なわれるいっさいのしいたげを見た。見よ、しいたげられている者の淚を。彼らには慰める者がいない。しいたげる者が権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。
コヘ4:2 私は、まだいのちがあって生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人のほうに祝いを申し述べる。
コヘ4:3 また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行なわれる悪いわざを見なかった者だ。
[22] 1テモ1:9 すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、
1テモ1:10 不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。
[23] ルカ12:48 しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。
[24] エゼ3:19 もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。
[25] エレ2:19 あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める。だから、知り、見きわめよ。あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦苦しいことかを。―万軍の神、主の御告げ。―
[26] 1ヨハ4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
[27] 2コリ5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
2コリ5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
[28] エフェ1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、
エフェ1:10 時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、
[29] 詩49:14 彼らは羊のようによみに定められ、死が彼らの羊飼いとなる。朝は、直ぐな者が彼らを支配する。彼らのかたちはなくなり、よみがその住む所となる。
詩104:35 罪人らが地から絶え果て、悪者どもが、もはやいなくなりますように。わがたましいよ。主をほめたたえよ。ハレルヤ。
詩59:13 激しい憤りをもって滅ぼし尽くしてください。滅ぼし尽くして、彼らをなくしてください。そうして、神が地の果て果てまでもヤコブを治められることを、彼らが知るようにしてください。セラ
詩112:10 悪者はそれを見ていらだち、歯ぎしりして溶け去る。悪者の願いは滅びうせる。
詩37:20 しかし悪者は滅びる。主の敵は牧場の青草のようだ。彼らは消えうせる。煙となって消えうせる。
[30] 詩89:14 義と公正は、あなたの王座の基。恵みとまことは、御前に先立ちます。
[31] マタイ22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
マタイ22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
マタイ22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
マタイ22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
[32] マタイ5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
マタイ5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
マタイ5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
[33] マラ3:5 「わたしは、さばきのため、あなたがたのところに近づく。わたしは、ためらうことなく証人となり、呪術者、姦淫を行なう者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、在留異国人を押しのけて、わたしを恐れない者たちに、向かう。―万軍の主は仰せられる。―
[34] 1ヨハ5:3 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
[35] ヨブ1:8 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
ヨブ1:9 サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
ヨブ1:10 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。
ヨブ1:11 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」
[36] 1ヨハ1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。
[37] ヨハネ8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
[38] ロマ3:5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。
ロマ3:6 絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。
[39] ガラ5:14 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。
[40] 1ヨハ3:4 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。
[41] ロマ6:23 罪から來る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト․イエスにある永遠のいのちです。
[42] 1コリ15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
1コリ15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
1コリ15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
[43] 1ペト1:12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人人を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。
1ペト1:13 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス․キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
[44] ヨハネ14:15 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
[45] 創2:20 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。
[46] エフェ3:9 また、万物を創造された神の中に世世隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。
エフェ3:10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、
エフェ3:11 私たちの主キリスト․イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。
[47] レビ16:17 彼が贖いをするために聖所にはいって、再び出て來るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。
黙15:8 聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその聖所に、はいることができなかった。
[48] ロマ5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
[49] 1ヨハ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
1ヨハ4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
[50] 1ヨハ4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
[51] テト2:14 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。
[52] 雅8:6 私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。
雅8:7 大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。
[53] 使徒2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス__キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
[54] ヨハネ7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに來て飲みなさい。
ヨハネ7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
ヨハネ7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
[55] 1ヨハ3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
[56] ロマ8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
ロマ8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
ロマ8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
[57] ガラ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
[58] コロ1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
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