創3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
創3:23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
創3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
† ハデスにサタン噓群れが閉じ込められています。ですからハデスは暗いです[1]。神様が闇の中に光を創造されます[2]。罪に人が閉じ込められています。ですから人の心は暗いです。メシヤが人の心に映ります[3]。人は今、光の中にいます。
† 暗闇の中で、神様は光を置かれます。ハデスの中に、神様はエデンを置かれます。エデンの中に、神様はエデンの園を置かれます。聖所の中に、神様は至聖所を置かれます。エデンの園に命の木があります。エデンの園は至聖所です[4]。至聖所の中に、神様が戒めを置かれます。エデンの園の中に、神様は戒めを置かれます[5]。
† アダムは戒めを破ります。アダムは罪の奴隷になります[6]。アダムは闇に追い出されます。アダムは至聖所から追い出されます。ケルビムと炎の剣が命の木への道を塞いでいます[7]。ケルビムと贖いのふたが戒めに向かう道を防いでいます。ケルビムと御座が永遠の命に向かう道を塞いでいます。アダムが命の木の果実を食べるためには、アダムはケルビムと炎の剣を通過しなければなりません。アダムが永遠の命を得るためには、アダムは至聖所の御座を通過しなければなりません[8]。
† 義と公正と恵みとまことが御座の基礎です[9]。戒めが御座の基礎であります。神様は愛の戒めで被造界を支配されます。戒めを破る者は死にます[10]。戒めを破る者は御座を通過できません。戒めを破る者は命の木の果実を食べることができません[11]。戒めを破る者は永遠の命を得ることができません[12]。
† 罪は戒めを破るのです[13]。罪は神様に服従しないのです[14]。罪は隣人を踏みにじるのです[15]。罪を犯し続ける被造物は裁きを受けます[16]。戒めを基準に被造物が分かれます。戒めを守る被造物と戒めを破る被造物で、被造物が分かれます。主イエス様に服従する被造物と主イエス様に服従しない被造物とで、被造物が分かれます[17]。神様と隣人を愛する被造物は永遠に生きます[18]。隣人を踏みにじる被造物は火の池に投げ込まれます。
† 戒めを守るか守らないかは、被造物各自が選びます。主イエス様に服従するかどうかは、被造物それぞれが選びます。戒めを守れば生き、戒めを破ると火の池に投げ込まれます[19]。戒めを守る被造物にとって、戒めは命の木であります[20]。戒めを破る被造物に、戒めは禁断の果実であります[21]。
† 隣人を愛しなさいという戒めが、隣人を愛する被造物には命の木の果実となり、隣人を踏みにじる被造物には禁断の果実となります。隣人を愛する心は、命の木の果実を食べる行ないで現れます。隣人を踏みにじる心は、禁断の果実を食べる行ないで現れます。同じ戒めだが、その戒めに対する被造物の心は違います。
† 神様の愛は、被造物に戒めで伝えられます[22]。神様が隣人を踏みにじる被造物を生かしておかれるという意味は、踏みつけられる被造物を愛していないという意味です。戒めを破る被造物を生かしておけば、被造物は互いを踏みにじるでしょう。裁きと救いの基準は戒めです。永遠の命と火の池の基準は戒めです。
† 御座の前では裁きが成されます[23]。戒めを破る者が神様をお会いすれば死にます[24]。戒めを破る者が御座の前に立つと死にます[25]。戒めを破る者が至聖所に入ると死にます[26]。戒めを破る者がエデンの園に入ると死にます。戒めを破る者が命の木の果実を食べようとすると死にます[27]。
† 主イエス様は戒めを破るすべての被造物を火の池に燃やされます。その前に、主イエス様は被造物に悔い改めの機会を与えました。主イエス様が親しく来られ、被造物の心に光を当てます[28]。被造物の罪が明らかになります。罪を捨てた被造物は火の池に投げ込まれません[29]。戒めを守る被造物は火の池に投げ込まれません。
† 行ないは心があらわれたものにすぎません[30]。アダムはすでに禁断の果実を食べることもできる心を持っていました。アダムはすでに危険な心を持っていました。状況だけになれば、アダムは禁断の果実を食べる者でした。状況になると、アダムは禁断の果実を食べました。
† 禁断の果実を食べると死にます。禁断の果実を食べると、もう命の木の果実を食べることができません。それでもアダムは禁断の果実を食べました。アダムにとって命の木の果実の価値は、ちょうどそれだけだったのです。姦淫すれば、もう妻と一緒にできなくなります。それでも姦淫します。彼に妻の価値は、ちょうどそれだけなのです。
† 痛みを知らない者は安息の大切さも知りません。死を知らない者は生命の大切さも知りません[31]。禁断の果実の苦しみを知らない者は、命の木の果実の大切さも知りません。命の木の果実の大切さを知らない者は、たぶん禁断の果実を食べることもできます。戒めの大切さを知らない者は、多分戒めを破ることもできます。
† 命の木の果実を食べればアダムは永遠に生きるでしょう。戒めを守る者になれば、アダムは命の木の果実を食べることができるようになるでしょう[32]。アダムが戒めを守る者になれば、アダムは永遠に生きるでしょう[33]。しかしアダムは命の木の果実の大切さを知りませんでした。
† アダムは自分の心を知りませんでした。アダムは自分が命の木の果実を食べることができない状態にあるという事実を知りませんでした。アダムは自分が禁断の果実を食べることができる状態にあるという事実を知りませんでした[34]。アダムは自分が神様よりもエバをもっと愛しているという事実を知りませんでした[35]。アダムは自分に命の木の果実がどれだけ必要なのかを知りませんでした。
† 禁断の果実は命の木の果実を食べさせるためにあるのです。禁断の果実がなければ、アダムは自分の心を知らなかったでしょう[36]。禁断の果実がなければ、アダムは自分が神様よりもエバをもっと愛しているという事実を知らなかったでしょう[37]。禁断の果実がなければ、アダムは自分がすでに死んでいるという事実を知らなかったでしょう。禁断の果実がなければ、アダムは自分に命の木の果実がどれだけ必要なのかを知らなかったでしょう。
† 禁断の果実を食べると死にます。いいえ、死人は禁断の果実を食べます。禁断の果実は自分が死んでいることを知らせる信号だけです。禁断の果実は、自分が神様の命から離れていることを知らせる信号だけです。心が行ないにあらわれます。禁断の果実を食べられる心が禁断の果実を食べる行ないにあらわれます。
† 禁断の果実を食べた者は自分の実体を見ることになります。禁断の果実を食べた者は自分が死んでいることを知るようになります。禁断の果実を食べた者は、自分に命の木の果実が必要だという事実を知るようになります。アダムは神様よりもエバを愛する時からすでに死んでいました。禁断の果実は単にその事実を明らかにしただけです。
† 戒めが映ると心が現れます。禁断の果実の戒めが映るとアダムの心が現れます。アダムは獣の形でした[38]。アダムは自分の実体を悟ります。今、アダムは命の木に走ります。
† モーセを通して律法が薄く映りました[39]。主イエス様が来て、律法の真実を明るく照らします[40]。アダムは神様よりもエバを愛していました。戒めを守れないアダムにとって、戒めは裁きの根拠となります[41]。戒めを守れないアダムにとって、戒めはアダムを殺す法になります[42]。戒めを守ることができないアダムにとって、戒めは禁断の果実として現れます。
† アダムが神様を最も愛するようになると、アダムは戒めを守ることができます。戒めを守ることができるアダムにとって、戒めは生命の根拠となります[43]。戒めを守ることができるアダムにとって、戒めはアダムを生かす法になります。戒めを守ることができるアダムにとって、戒めは命の木の果実として現れます[44]。
† アダムが禁断の果実を食べるという意味は、戒めがまだアダムに死の法という意味であります。アダムがまだ神様を最も愛していないという意味です。同じ戒めが、アダムに禁断の果実になったり、命の木の果実になったりします[45]。神様を愛さないアダムにとって、戒めは禁断の果実です[46]。神様を愛するアダムにとって、戒めは命の木の果実です[47]。戒めは変わりません。アダムが変わらなければなりません。アダムが命の木の果実を食べる者にならなければなりません。
† 地は支配する者の心を表しています[48]。アダムはエデンを支配します。エデンはアダムの心を表しています。エデンの園には命の木だけがあるわけではありません。エデンの園には善悪知識の木もあります。自由意志が完成されていないアダムの心の中にはまだ禁断の果実が残っています[49]。アダムにはまだ神様を逆らう可能性が残っています。エデンの園には命の木だけがなければなりません。アダムから隣人を踏みにじる可能性が消滅されなければなりません。
† 被造物が神様を愛する時、被造界の中には命の木だけが残ります[50]。被造物が神様を愛する時、被造物の心の中には命の木だけが残ります。被造物が神様を愛する時、被造界の中には愛だけが残ります。被造物が神様を愛する時、被造物の心の中には愛だけが残ります[51]。神様は被造界で罪と死を永遠に消滅させることを望みます[52]。神様は、被造界で苦しみと悲しみを永遠に消滅させたがります[53]。神様は被造物がもはや犯罪しなくなることを望んでいます。
† 新しいエルサレムにはもはや善悪知識の木がありません。新しいエルサレムには命の木だけがあるだけです。神様は被造界で罪と死を永遠に消滅させるためにアダムを創造されました[54]。神様は被造界に命の木だけを残すためにアダムを創造されました[55]。
† しかし、アダムは最初から命の木の果実を食べることができません。アダムは最初からキリストに服従することはできません。神様の愛を知らず、まず神様を愛することができる被造物はありません[56]。十字架の愛を知らず、まず神様のために命を捨てられる被造物はありません[57]。被造物は自分の力で命の木の果実を食べることができません。被造物は自らの力で永遠に生きることはできません[58]。
† 戒めは、被造物が十分に守ることができるのです[59]。ただし、神様の愛を先に知ってこそ守ることができます。愛の戒めは愛で守るのです[60]。神様は十字架を通して神様の愛を示しています[61]。神様の愛を受け入れる被造物は戒めを守ります。自分の欲を満たすために神様の愛を拒む被造物は戒めを破ります[62]。神様は神様を愛する被造物だけを残しておかれます。神様は隣人を踏みにじる被造物は火の池に燃やされます[63]。今、誰も隣人を踏みつけません。被造界で罪は消滅されます。被造界に安息が成されます。
† 被造物に自由意志をくださった方が神様です。神様は被造物にくださった自由意志を侵害されません。神様がなぜ被造物に自由意志をくださったのかはわかりません[64]。おそらく、神様が被造物を愛しているからであると推測されます。
† 神様が被造物に自由意志をくださいました。今、神様は被造物を説得しなければなりません。今、神様は被造物を納得させなければなりません。今、神様は被造物になぜ愛さなければならないのかを教えなければなりません。被造物はまず愛しようとしません。それゆえ、神様は被造物にまず神様の愛を見せてくださいます。神様は被造物のために十字架から神様のすべてを捨てられます。
† もし神様が被造物に自由意志をくださらなかったなら、神様はすべてを捨てる必要はありませんでした。神様は命令にそのまま服従するものになるように被造物を作られてもよいのです。
† 神様はすべての被造物のすべての選択をすでにご存じでいらっしゃいます[65]。今のような構造の被造界で神様は、そのように選ぶ被造物をその場に配置されます[66]。神様は神様に服従する被造物をあらかじめご存じでいらっしゃいます。神様は彼に憐れみを与えます[67]。神様は神様に逆らう被造物をあらかじめご存じでいらっしゃいます。彼は悔い改めません。神様は彼を捨てられます[68]。神様は長く我慢された後[69]、犯罪者たちを裁かれます[70]。被造物のそれぞれの選択を使って、神様は被造界で罪を消滅させられます。
† 神様は神様の愛を十字架で示しています。したがって、被造物が神様の愛を確実に知るようになるまで、過渡期があるかもしれません。被造物が十字架の愛を知るまで、神様は殺人しないように命じられました。被造物が十字架の愛を知るようになった今、神様は敵をも愛するよう命じられます。被造物の状態によって神様が求められる基準が異なるのです。したがって、いかなる場合でも、神様が命じられたとおりに神様の戒めを守ることができます。
† 神様はイスラエルの民に律法を与えられました[71]。将来お見えになるメシヤを信じるイスラエルの民は律法を守りました[72]。すでにお見えになったメシヤを信じる聖徒たちは、キリストの律法を守ります[73]。将来お見えになるメシヤを信じる人々は殺人しませんでした。すでにお見えになったメシヤを信じる聖徒は敵を愛しています。メシアを信じる信仰の表現で律法を守るのです[74]。律法を守らなければ、メシヤを信じるのではありません[75]。行ないとして証明されない信仰は裁きを通過できません[76]。
† ヘレルは堕落しないことが可能でした。ミカエルとガブリエルは堕落しませんでした。アダムは堕落しないことが可能でした。ノアとダニエルとヨブは堕落しませんでした。イスラエルの民は堕落しないことが可能でした。ヨシュアとカレブは堕落しませんでした。神様の戒めが間違っていません。犯罪者の選択が間違っています。
† 神様が被造物たちに恵みを与えます。もしサタン噓群れが神様の恵みを拒絶しなかったならば、サタン噓群れは御使いとして残ることができたでしょう。御使いたちに神様の恵みがどのように施されたのかは分かりません。ただし、堕落した御使いたちが悔い改めないことを見ると[77]、彼らが受けた恵みはかなり強力だったと推測されます。これらは、自由意志を十分に発揮してわざわざ犯罪しなければ[78]、犯罪できない状態にあったようです[79]。もしそうなら、サタン噓群れは悔い改めることは不可能です[80]。彼らは知ってもわざわざ罪を犯したのです[81]。神様ご自身が被造物にくださった自由意志を、神様は侵害されません。
† 神様はアダムに戒めを照らされました。アダムは光を受けました。アダムはその光を禁断の果実で反射することができます。また、アダムはその光を命の木の果実で反射することができます。禁断の果実はサタンの心を表しています。命の木の果実は神様の心を表しています。アダムはサタンの心を抱くことができます[82]。また、アダムは神様の心を抱くことができます。アダムはサタンの形になることができます[83]。さらに、アダムは神様の形になることができます[84]。
† アダムがサタンの心を抱くならば、アダムは禁断の果実を食べるでしょう。アダムが神様の心を抱くならば、アダムは命の木の果実を食べるでしょう。禁断の果実や命の木の果実はアダムの心を行ないとして表します。アダムはサタンの形になることを選びました[85]。
† もちろん、アダムは自分の力で永遠に生きることができません。アダムはまず神様を愛することができません。アダムは十字架の愛を知らなければ初めて神様を愛することができます[86]。十字架の愛を知る前に、アダムは永遠に生きることができません。十字架の愛を知る前に、アダムは命の木の果実を食べることができません。自由意志が完成される前に、アダムは命の木の果実を食べることができません[87]。
† アダムが命の木の実を食べることが不可能だったという意味ではありません。実際に食べたかもしれません。しかし、十字架の愛を知らず、体に良い実を食べてみたら、それが実際に永遠の命を与えることはできないという意味です。命の木は主イエス様を象徴します[88]。小羊は主イエス様を象徴します[89]。主イエス様が永遠の命をくださるのです。主イエス様を象徴する木や動物が永遠の命を与えるのではありません。アダムが禁断の果実を食べなかったときにも、アダムはいつでも犯罪できる者でした。
† もしアダムが禁断の果実を拒んだなら、アダムは今よりも快適に神様の愛を悟ることができたでしょう[90]。アダムが勝ったならば、アダムの自由意志は苦しみなく完成されることができたでしょう。ヘレルの惑わしに勝った御使いたちは[91]、アダムよりもっと快適に神様の愛を悟っています[92]。もちろん、神様は犯罪しないアダムの代わりに、犯罪する人間をアダムの席に置かれたかもしれません。神様は今と同じ過程で創造を完成されることで創世前に先にあらかじめ定められ、創造を始められました。
† もし神様が勝つアダムを別の時代に置いたならば、彼は殉教証人になったでしょう[93]。神様が殉教証人を最初のアダムの席に置かれたなら、彼は禁断の果実の惑わしに勝ったでしょう。そして創造の過程は変わったでしょう。
† しかし、神様は敗北する人を最初のアダムの席に置かれました。神様は禁断の果実敗北後、十字架勝利という過程で[94]創造を進められます[95]。神様は時間と空間を創造され[96]、今も存続させています[97]。
† 神様はすべての被造物のすべての選択を[98]完全にご存じでいらっしゃいます[99]。神様に服従する被造物もあり、神様に逆らう被造物もあります[100]。神様はあらかじめ定められた計画に従って[101]各被造物を配置されました[102]。神様は神様が望み通り行われます[103]。被造物などがあえて創造に関与できません[104]。私たちはただ神様に服従するだけです[105]。
† アダムは禁断の果実を食べました。アダムは初めて自分が禁断の果実を食べる者であるという事実を悟ります。アダムは初めて自分が神様を逆らう者であるという事実を悟ります。アダムは初めて自分が神様を愛さない者であるという事実を悟ります。アダムは初めて自分が死んでいることに気づきます。今、アダムは命の木に走ります。
† 主イエス様はすなわち命の木です。十字架はすなわち命の木の果実です[106]。第2位神様ご自身が被造物となられ、被造物に命を与えられます。父は御子を通してのみ被造物に命を与えられます[107]。御子に服従する被造物だけに命があります。御子は十字架で父に死に至るまで服従されました。御子は十字架を通して被造物たちに神様の命を受ける道を示しました[108]。
† 私たちは禁断の果実を通して自分が死んでいることを発見します[109]。私たちは今生きるためにあがきます。足掻いて、私たちは十字架を発見します。十字架は神様にとって苦痛です。私たちは神様がなぜそんなに苦しむべきかを見ます。私たちは十字架に近づきます。
† 十字架で、神様は私たちに神様の血を注がれます。十字架で、神様は死んでいる私たちを生かされるために神様の血を注がれます。十字架で、神様は私たちが受けなければならない呪いを代わりに受けられます[110]。十字架で、父は御子を捨てられます[111]。十字架で、御子は父に捨てられます。十字架で第1位神様と第2位神様は泣いていらっしゃいます[112]。
† 「なぜ…なぜ…このようになさるのですか?」「どうしてこんなにご自分を苦しめていらっしゃるんですか?」「何のために被造物なんかに自由意志のようなものを与えられましたか?」
† 十字架を通して、私たちは今、神様の愛を知りました[113]。十字架を通して、私たちは今、神様が私たちのためにどのような対価を払ったのかを知りました[114]。今、私たちは私たちの十字架を負います。今、私たちは心を尽くして神様に服従します。今、私たちは命を得ます[115]。今、私たちは命の木の果実を食べます[116]。
† 善悪知識の木がなければ、私が死んでいることをわかりません[117]。私が死んでいることを知らなければ、生きるためにあがきません。生きるためにあがかなければ、十字架を見ることができません。十字架を見なければ、神様の愛を知ることができません[118]。神様の愛を知らなければ、神様を愛することができません。神様を愛さなければ、戒めを守ることができません。戒めを守らなければ、命を得ることができません。したがって、禁断の果実がなければ、命の木の果実を食べることができません。
† 禁断の果実は律法であります。禁断の果実は命の木の果実に導く養育係です。禁断の果実は私を照らす鏡です。禁断の果実を通して私の罪を悟ります[119]。禁断の果実を通して命の木に進みます。主イエス様はすなわち命の木です。主イエス様を通して罪に対して死にます[120]。主イエス様を通して新しく生まれます[121]。主イエス様を通して聖霊神様のバプテスマを受けます[122]。
† 神様がアダムが命の木の果実を食べないように、アダムをエデンの園から追い出されます。真実は、神様がアダムを追い出さなければ、アダムは命の木の果実を食べることができません。
† 命の木の果実は自由意志が完成された者だけ食べることができます。自由意志は十字架の愛を通してのみ完成されます[123]。十字架の愛を知らない者は命の木の果実を食べることができません。自由意志が完成されていない者は、いつかは必ず禁断の果実を食べます。
† アダムから犯罪の可能性が消滅されない限り、アダムは禁断の果実を食べるしかありません。アダムが命の木の果実を食べるためには、十字架を通してアダムの自由意志が先に完成されなければなりません。したがって、神様はアダムをエデンの園から追い出されます。もし神様が禁断の果実を食べるアダムを永遠に生きさせられるなら、神様はサタンも永遠に生きさせなければなりません。サタンが永遠に生きると、アダムの人生は地獄になります。
† 禁断の果実がアダムを殺すのではありません。不従順がアダムを殺すのです。命の木の果実がアダムを生かすのではありません。従順がアダムを生かすのです。果物には永遠に生かす力がありません。もし神様が果物自体に永遠に生かせる力を置かれたのなら、戒めは永遠の命とは関係ないでしょう。禁断の果実や命の木の果実は、戒めを守るか守らないかを行ないで表す道具だけです。禁断の果実や命の木の果実は、アダムの心を表す道具だけです。
† 果物を食べて神様から切れるなら、戒めは何に必要ですか。果物を食べて永遠に生きるようになったら、愛は何に必要ですか。ただ果物を食べることや食べないことで被造界の法を定めればいいのではないでしょうか。すでに神様の命から切れてしまったアダムに果物が何の役に立つのでしょうか。果物は単に従順と不従順を行ないとして表す道具だけであります。
† 禁断の果実それ自体には死がありません。命の木の果実それ自体には命がありません。死人は禁断の果実を食べます。生きている人が命の木の果実を食べます。死人は戒めを破ります。生きている人は主イエス様に服従します。禁断の果実や命の木の果実はそれを食べる者たちの状態を示す信号表示にすぎません。
† 神様に服従すると生き、神様に従わなければ死ぬという事実を、二つの果物を通して被造物たちに教えてくださるのです。禁断の果実や命の木の果実は、被造物を愛の戒めの中に導くために神様が使用される教材であります。
† 神様はアダムが禁断の果実を食べない人になることを望んでいます。神様はアダムが命の木の果実を食べる人になることを望んでいます。禁断の果実を食べたり食べたりしないことはあまり重要ではありません。今禁断の果実を食べても、悔い改め、再び食べないなら大丈夫です。今禁断の果実を食べていなくても、いつかは禁断の果実を食べる人なら危険なのです。神様は果物を食べない人ではなく、従順な人になることを望んでいるのです。神様は果物を食べる人ではなく、従順な人になることを望んでいるのです。
† 犯罪した被造物は裁きを受けて死ななければなりません。犯罪したアダムが永生すれば犯罪するサタンも永生しなければなりません。犯罪するサタンが永生すれば、被造界はまさに地獄になるでしょう。犯罪したアダムは永遠に生きてはいけません。それをアダムが命の木の果実を食べてはならないと表現されるのです。
† 犯罪の被造物が裁きを避けることは不可能です。①神様がそのように定められたからです。また、②神様は全能であるからであります。
† したがって、アダムが実際に命の木の果実を食べることは不可能です。神様がアダムをエデンの園から追い出されたというみことばを通して、私たちは犯罪者が決して永遠に生きることができないという事実を学びます。アダムに命の木の果実を食べる可能性があり、神様がアダムを追い出されたのではありません。
† もちろんアダムは実際に追い出されたでしょう。しかし、アダムがエデンの園にとどまっていたとしても、アダムは命の木の果実を食べることができなかったでしょう。実際にその果物を食べたとしても、アダムは永遠に生きることができませんでした。従順が永遠に生きるようにするのです。果物が永遠に生き続けさせてくれるわけではありません。犯罪者は決して永遠に生きることができません。
† 自分が自分の主人となった者が禁断の果実を食べます。神様を自分の主人として認めない者が禁断の果実を食べます。彼は十字架を背負うことができません[124]。彼は命の木の果実を食べることができません。禁断の果実を食べた瞬間、彼はエデンから追い出されます[125]。犯罪したサウルはまだ王です。しかしサウルはもはや王ではありません[126]。犯罪したサウルはエデンの園から追い出されたのです。
† 自分が自分の主人になった者は、命の木の果実が隣にあっても命の木の果実を食べることができません。彼は十字架が隣にあっても十字架の愛を知ることができません。彼は自分が禁断の果実を食べているという事実さえ悟っていません[127]。
† 自分が自分の主人になった者は、善と悪を自分で判断します。アダムにとって善はエバでした。アダムにとって、善はエバと共に禁断の果実を食べて死ぬことでした。アダムにとって悪は神様でした。アダムにとって悪は禁断の果実を食べて死んだエバを捨てることでした。
† アダムは禁断の果実を食べて死にました。今、アダムにとって、エバは悪です。今、アダムにはエバをくださった神様が悪です[128]。「エバのせいで私は禁断の果実を食べた」「エバをくださった神様が間違われたのだ」「神様のせいで私は犯罪した」「神様の判断は間違った」アダムは善と悪の基準を自分が定めた。
† 自分が自分の主人になった者は、神様が定められた善と悪の基準を受け入れません。彼は自分が立てた善と悪の基準に従います。彼は愛の戒めを受け入れません。彼は自分の欲に従います。
† 愛の戒めを破る者が禁断の果実を食べます。愛の戒めを守る者が命の木の果実を食べます[129]。戒めを破る者は、十字架の愛を知って戒めを守る者になります[130]。十字架の愛を知るまで、彼は戒めを守ることができません。十字架の愛を知るまで、彼は隣人を愛することはできません。十字架の愛を知るまで、彼は命の木の果実を食べることができません。
† 禁断の果実を食べないことは重要ではありません。禁断の果実を食べない人になることが重要なのです。戒めを破らないことは重要ではありません。戒めを破らない人になることが重要なのです。隣人を踏みつけないことは重要なことではありません。隣人を踏みにじらない人になることが重要なのです。
† 神様は悔い改めないサタンだけを殺し、悔い改めるアダムは生かされます。神様は悔い改めるアダムだけが命の木の果実を食べさせられます。第2位神様が被造物としてお見えになります。サタンは第2位神様を殺します[131]。サタンは命の木の果実を食べることができません[132]。アダムは第2位神様に服従します[133]。アダムは命の木の果実を食べます。第2位神様はアダムだけを生かされ、サタンは火の池に燃やされます[134]。
† アダムは罪の奴隷になりました。アダムの肉体では肉の欲望が出ます[135]。アダムは今サタンに服従します[136]。そのようなアダムがエデンに快適に住んでいるなら、アダムは悔い改めません。悔い改めないので、アダムは命の木の果実を食べません。悔い改めないので、アダムは神様に服従しません。神様に服従しないので、アダムは火の池に投げ込まれます。エデンの保護がむしろアダムを殺すのです。
† それゆえ、神様はアダムに苦しみを与えます[137]。苦しみを通してアダムは罪の苦しみを知るようになります[138]。苦しみを通してアダムは肉の欲望と戦います[139]。苦しみを通してアダムは神様に近づきます[140]。苦しみを通してアダムは命の木の果実を食べます。エデンから追い出され、アダムは命の木の果実を食べます。
† 至聖所の東側に垂れ幕があります。垂れ幕にケルビムが刺繍されています[141]。エデンの東側にケルビムと炎の剣があります。垂れ幕に詰まって至聖所に入ることができません[142]。ケルビムと炎の剣に詰まってエデンの園に入ることができません。垂れ幕に詰まって神様の栄光を見ることができません[143]。ケルビムと炎の剣に詰まって命の木を見ることができません。
† 主イエス様の血で至聖所の垂れ幕が開かれます[144]。十字架を背負って、主イエス様が至聖所に入ります。十字架を背負って、主イエス様に従ってアダムも至聖所に入ります[145]。十字架を背負って、主イエス様に従ってアダムもエデンの園に入ります。十字架を背負って、アダムはケルビムと炎の剣を通過します。
† 至聖所に入ってアダムは戒めを見ます。エデンの園に入り、アダムは命の木を見ます。アダムが戒めを見ると、すなわち主イエス様です[146]。アダムが命の木を見ると、すなわち主イエス様です[147]。主イエス様は命の木の果実を渡します[148]。アダムが命の木の果実を見ると、すなわち主イエス様の血です[149]。アダムが命の木の果実を見ると、すなわち聖霊神様です[150]。アダムは主イエス様の肉を食べ、主イエス様の血を飲みます[151]。アダムは再び犯罪しません[152]。アダムは永遠に生きます。
† 主イエス様はすなわち被造物の戒めです[153]。主イエス様はすなわち被造物の命です[154]。主イエス様を受けた被造物だけに命があります[155]。主イエス様に服従する被造物だけ命の木の果実を食べます[156]。
† エデンの園で追い出されたアダムは痛いです。痛みの中でアダムは安息の大切さを悟ります[157]。今アダムはエデンの園を懐かしく思っています。今アダムは罪を憎みます。
† 以前、アダムはエデンの園での豊かさを当然と考えていました。以前アダムは神様の恵みを当然と考えていました[158]。今、アダムは神様の恵みを悟ります。今アダムは神様の愛を悟ります[159]。今アダムは神様の形になります[160]。アダムを再びエデンの園に持ち込むために、神様は神様のすべてを捨てられました。
創2:21 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
出33:18 すると、モ-セは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」
出33:19 主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
出33:20 また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
出33:21 また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。
出33:22 わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。
出33:23 わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」
レビ16:1 アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいてそのために死んで後、主はモ-セに告げられた。
レビ16:2 主はモ-セに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現われるからである。
士6:22 これで、この方が主の使いであったことがわかった。それで、ギデオンは言った。「ああ、神、主よ。私は面と向かって主の使いを見てしまいました。」
士13:21 ...主の使いは再びマノアとその妻に現われなかった。...そのとき、マノアは、この方が主の使いであったのを知った。
士13:22 それで、マノアは妻に言った。「私たちは神を見たので、必ず死ぬだろう。」
イザ6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
イザ6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
イザ6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
イザ6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
イザ6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
エゼ1:26 彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。
エゼ1:27 私が見ると、その腰と見える所から上のほうは、その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見えた。その腰と見える所から下のほうに、私は火のようなものを見た。その方の回りには輝きがあった。
エゼ1:28 その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。
エゼ2:1 その方は私に仰せられた。「人の子よ。立ち上がれ。わたしがあなたに語るから。」
エゼ2:2 その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちにはいり、私を立ち上がらせた。そのとき、私は私に語りかけることばを聞いた。
ダニ8:15 私、ダニエルは、この幻を見ていて、その意味を悟りたいと願っていた。ちょうどそのとき、人間のように見える者が私の前に立った。
ダニ8:16 私は、ウライ川の中ほどから、「ガブリエルよ。この人に、その幻を悟らせよ。」と呼びかけて言っている人の声を聞いた。
ダニ8:17 彼は私の立っている所に來た。彼が來たとき、私は恐れて、ひれ伏した。すると彼は私に言った。「悟れ。人の子よ。その幻は、終わりの時のことである。」
ダニ8:18 彼が私に語りかけたとき、私は意識を失って、地に倒れた。しかし、彼は私に手をかけて、その場に立ち上がらせ、
ダニ10:5 私が目を上げて、見ると、そこに、ひとりの人がいて、亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締めていた。
ダニ10:6 そのからだは綠柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがきあげた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。
ダニ10:7 この幻は、私、ダニエルひとりだけが見て、私といっしょにいた人人は、その幻を見なかったが、彼らは震え上がって逃げ隠れた。
ダニ10:8 私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った。
ダニ10:9 私はそのことばの声を聞いた。そのことばの声を聞いたとき、私は意識を失って、うつぶせに地に倒れた。
黙1:13 それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
黙1:14 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
黙1:15 その足は、爐で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。
黙1:16 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
黙1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
† 神様はすべての瞬間、すべての場所に同時にいらっしゃって[161]、すべての瞬間、すべての場所を同時に存続させています[162]。神様は過去と現在と未来のすべての瞬間、すべての場所に同時にいらっしゃいます[163]。神様は過去と現在と未来のすべての瞬間、すべての場所を同時に存続させています[164]。
† 時間や空間は被造物です[165]。被造物は時間と空間の中にのみ存在します[166]。御使いや人間は時空間の中にのみ存在します。神様は時間と空間を存続させています[167]。時空間は神様にまるでないようなものです[168]。神様は時空間をいつでも無数に創造することができます[169]。神様は時空間をいつでも一気に消滅させることができます[170]。
† 神様は存在の神様であるだけでなく、非存在の神様でもあります[171]。神様が呼ばれれば非存在は存在になります[172]。神様が返せば、存在は非存在となります。神様は常に無限を存続させています[173]。神様は常に無限を超えています[174]。神様は大きいです[175]。神様は実際の神殿やハデスに閉じ込められません[176]。御使いや人間などがそうした神様を実際にお会いすることはできません[177]。
† 神様は実際の御座に御名を置かれます[178]。その御名によって御使いたちは神様をお迎えします。神様を実際に見たものではないので、御使いは消滅されません。神様の御名によって御使いは人間に送られます[179]。人間は神様の御名によって来た御使いを見ます[180]。神様をお会いしたわけではないので、人間は消滅されません。
† アダム[181]、アブラハム[182]、モーセ[183]、ヨシュア[184]、ギデオン[185]、マノア、エリヤ[186]、イザヤ、エゼキエル、ダニエル、そして多くの預言者は消滅されませんでした。ヨハネも被造物となられた神様をお会いしてきたのです。ヨハネは復活した主イエス様をお会いしました。ヨハネは御使いのようになった神様をお会いしたのです[187]。したがって、ヨハネは消滅されませんでした。
† しかし、人間は神様をお会いすれば死ぬという事実を知らなければなりません[188]。したがって、人間は神様の御名によって送られた御使いを見て深く眠ります。人間は神様の御名に出会い、深く眠ります。人間は神様を見て死にます。
† 深い眠りは死を意味します。完全な死は第2の死、すなわち火の池であります[189]。犯罪者は大きな白い御座の裁きの時に第2の死を受けます。つまり、完全に死にます。死ぬ前に犯された[190]罪ほど[191]燃えなければなりません。罪の代価を全部払ったと永遠に生きることにもなりません。自由意志は罰として完成されません。火の池で罪の代価を払ったからといって、隣人を愛する者にはなりません。
† 恐怖から出た服従ではなく、愛から出た服従にならなければなりません[192]。自由意志が隣人を踏みにじることを、火の池の罰を受けることによってのみ避けることができるならば、神様はその自由意志をただ殺すでしょう。
† 完全な死を象徴するのは土の死です。私たちは土の死を通して第2の死を見ます。私たちは肉体が土に戻る死を通して完全な死を見ます。肉体が土に戻るのは眠りであります。土の死は実際の死ではありません[193]。
† 実際の死は捨てられる死です。眠るからといって、神様の命から切れるわけではありません。肉体が土に戻っても、神様の命から切れるわけではありません。しかし、捨てられれば神様の命から断ち切られます[194]。捨てられると肉体が生きていても死んだのです[195]。捨てられた者は火の池に投げ込まれます。火の池に投げ込まれたら完全に死にます。
土の死=眠り=実際の死の象徴
捨てられる死=神様の命から断たれること=実際の死
火の池=完全な死
[見方1] 第1の死=眠り+捨てられる死 / 第2の死=火の池
[見方2] 第1の死=眠り / 第2の死=捨てられる死+火の池
† [見方1] 神様の命から絶たれることを実際の死とみなす見方があり得ます。捨てられた者が火の池に投げ込まれるという見方です。捨てられても悔い改めれば生きることができるという見方です。
† [見方2] 完全に死ぬことを実際の死と見る見方があり得ます。火の池に投げ込まれながら完全に捨てられるという見方です。最後まで悔い改めなかったから完全に捨てられるという見方です。
† 土の死は呪いの結果です。呪いから抜け出せば土の死からも抜け出します。復活変化すると土の死から抜け出します。私は捨てられる死と土の死を第1の死で見ます。[見方1]
† 肉体も重要です。義人は霊的な体を着て御使いのようになります[196]。悪人も肉体を着て復活します[197]。土の肉体は火の池の激しい熱に耐えられません。悪人は犯された罪ほど火に燃えなければなりません。悪人は火の池に燃えつつも消滅されない肉体を着なければなりません。
† 義人の肉体も土に戻ります。罪の赦しを受けても肉体が土に戻ります。魂が神様に対して生きるようになる時点[198]と肉体の呪いが終わる時点が異なります[199]。(別の見方で、霊が生きるようになる時点と肉体の呪いが終わる時点が異なります。)肉体が死んでも生きている者がいて[200]、肉体が生きていても死んだ者がいます[201]。眠っている義人は命を受けるために復活し、永遠に生きます[202]。眠っている悪人は裁きを受けるために復活して、火の池に投げ込まれます[203]。
† 獣の捧げ物は主イエス様の象徴です。獣の血では実際に贖いは成されません[204]。獣の血は贖罪の約束に過ぎません。獣の血は神様の愛を証明できません。主イエス様は実際の捧げ物です。主イエス様の血で本当の贖いが成されます。主イエス様の十字架を通して、神様の愛が証明されます[205]。したがって、主イエス様の血で贖いが成されるまで、誰も実際に罪の赦しを受けることはできません。全部約束だっただけです[206]。
† エノクやエリヤは変化の予表だっただけです。罪人が死に打ち勝つことはできません[207]。まだ公式な罪の赦しがなされていないので、彼らが変化することはできません。主イエス様が眠っている者の初穂です[208]。
† 主イエス様は十字架を背負っています。今、本当の贖いが成されます。今、聖徒は公式に罪の赦しを受けます[209]。今、聖霊神様がお見えになります[210]。今、聖徒は罪に打ち勝ちます[211]。今、聖徒は復活します[212]。
† 被造物が神様をお会いすると死にます。ですから、第2位神様が己をむなしうして被造物となられるのです[213]。今、御使いと人間は神様を見ることができます[214]。神様を実際に見ても、御使いと人間は死にません[215]。
† 主イエス様は復活されて霊的な体をお召しになりました[216]。主イエス様は霊的な体で栄光の中に来ます[217]。殉教証人たちも霊的な体を着て栄光になります[218]。殉教証人たちも主イエス様のような体を着ます[219]。復活した主イエス様をお会いしても弟子たちは死にませんでした[220]。弟子たちは被造物となられた神様をお会いしたからです。
† 主イエス様は霊的な体を着ています。ヨハネは主イエス様を見て死んだ者のようになりました[221]。ところが弟子たちは死人のようにはなりませんでした。主イエス様が同じ体を着ていらっしゃるのに、なぜヨハネだけ死んだ者のようになったのでしょうか。私の考えには、ヨハネが主イエス様の栄光を見たからであるようです[222]。
† 主イエス様が復活する前に、ペテロとヨハネはひどく恐れていました[223]。おそらく主イエス様の栄光を見たからです[224]。しかし、私は神様の栄光が常に同じであると信じています。私たちが異なって感じる理由は、おそらく私たちがその栄光を見ることができないからです[225]。
† 私たちは、神様が神様の栄光を見せるときに神様を恐れています。しかし、神様が神様の栄光を隠すときは、神様に反対します。神様が御使いを通してシナイ山でおっしゃったとき、イスラエルの民は恐れていました。神様が黒雲と暗やみと嵐の中でおっしゃったとき[226]、イスラエルの民は恐れていました[227]。しかし、神様が人を通しておっしゃると、人々はその人を殺します[228]。御使いが神様の御名の栄光で人々に現れたとき、人々は死人のようになりました[229]。御使いがただ現れたとき、人々は少し驚いただけでした[230]。
† 主イエス様は十字架で公式な贖いを成されます。公式な贖いが成される前に、モーセとエリヤは栄光のうちに現れました[231]。モーセとエリヤがすでに復活したという意味ですか。第1の復活以前にも殉教証人が復活変化できるという意味ですか[232]。
† そうではないでしょう。殉教証人たちは第1の復活の時に死に打ち勝ちます[233]。それで、第1の復活の時に戒めの真実さが証明されるのです。第1の復活はまだ起こっていません。モーセとエリヤも実際に復活することはできませんでした。
† したがって、ペテロとヤコブとヨハネが「見たこと」は、おそらく幻や掲示であるでしょう[234]。パウロも第3の天を幻と掲示で見ました[235]。第3の天は1000年王国、すなわちパラダイスです[236]。1000年王国はまだ成されていません。
† この時はまだ主イエス様が十字架を背負う前です。この時はまだ公式な贖罪がなされる前です。この時はまだ聖徒たちに主イエス様の血が覆われる前です[237]。モーセやエリヤのような罪人が復活して歩き回っているということはあり得ません。
† 主イエス様がまた来て1000年王国を成されます。主イエス様は父の栄光としてお見えになります[238]。主イエス様は自分の栄光に来ます[239]。父は御子に栄光を与えます。したがって、父の栄光はすぐに御子の栄光です[240]。主イエス様はまた、聖徒たちに主イエス様の栄光を与えます[241]。ですから、王である祭司たちもまた、主イエス様から受けた栄光の中を歩みます[242]。
† 第2位神様が被造物となられて被造界を相続されることをあらかじめ定められ、創造を始められました[243]。神様は被造物に自由意志をくださいます。自由意志が完成されると創造が完成されます。自由意志は愛だけで完成されます[244]。
† 主イエス様の血で、神様と被造物がつながります。十字架の愛で、神様と被造物がつながります[245]。十字架の愛を通して、主イエス様は被造界で罪と死を滅ぼします[246]。主イエス様は相続された被造界に対する創造を完成されます。被造物となられた第2位神様の中で、被造物は第1位神様の愛の中に入ります[247]。被造物となられた第2位神様の中で、被造物は第1位神様につながります[248]。
† 被造物自体は神様に価値がないのです[249]。神様はいつでも無数に被造物を創造することができます[250]。被造物に今、御子の血が覆われました。御子の血が覆われたので今、被造物は神様に大切です。被造物は御子のために創造されました[251]。御子に逆らう被造物は神様に全く意味がありません[252]。彼らは火の池に投げ込まれます。
† 十字架を通して、神様の愛と公義が一次的に証明されました。定められた数の殉教証人が死に打ち勝つとき[253]、戒めの真実さが証明されます[254]。第1の復活が起こると、神様の愛と公義が完全に証明されます。戒めの真実さが証明されると、御使いたちはもはや神様を誤解しません[255]。戒めの真実さが証明されると、御使いたちの自由意志が完成されます。定められた数の殉教証人が死に打ち勝つと、御使いたちの自由意志が完成されます。
† 聖徒は復活変化して霊的な体を着ます。霊的な体を着れば、聖徒は再び犯罪することはできません。呪われた体を着ていても、聖霊神様に服従すれば、聖徒は罪に打ち勝つことができます[256]。呪われた体を着ているので、聖霊神様に服従しなければ、聖徒は罪に打ち勝つことができません[257]。犯罪しないために、パウロもサタンの使いから苦しめられなければなりませんでした。犯罪しないために、パウロも肉体のとげが必要でした[258]。パウロも自分の体を打たなければなりませんでした[259]。ですから、聖霊神様を祀っても、聖霊神様に服従しなければ罪に打ち勝つことができません[260]。
† しかし、アブラハムはイサクをささげ、神様に認められました[261]。ダニエルは約束を受けました[262]。パウロも死ぬ前に自分が信仰を守ったことを告白しました[263]。彼らは試験に合格した人たちです。これらを自由意志が完成された者たちと見ても良いようです。人間が試験に合格すれば、自由意志が完成されることもあるようです。人間が試験に合格すれば、呪われた肉体を着ても犯罪することが不可能になることもあるようです。生きて殉教すれば、呪われた肉体を着ても自由意志が完成されることもあるようです。
† 確かなのは、聖霊神様が充満にいらっしゃる間は決して犯罪しないということです[264]。聖霊神様に完全に屈服する間は決して犯罪しないということです[265]。
ヨブ28:28 こうして、神は人に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」
詩19:7 主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
箴3:18 知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである。
箴8:12 知恵であるわたしは分別を住みかとする。そこには知識と思慮とがある。
箴8:22 主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。
箴8:23 大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。
箴8:30 わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で樂しみ、
箴9:10 主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。
箴11:30 正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。
箴13:14 知恵のある者のおしえはいのちの泉、これによって、死のわなをのがれることができる。
箴15:4 穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅。
箴15:31 いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る。
箴15:32 訓戒を無視する者は自分のいのちをないがしろにする。叱責を聞き入れる者は思慮を得る。
箴15:33 主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄轝に先立つ。
箴21:7 悪者は自分の暴虐に引きずられる。公義を行なおうとしないからだ。
コヘ7:12 知恵の陰にいるのは、金銭の陰にいるようだ。知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。
コヘ12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
コヘ12:14 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。
ヨハネ12:48 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
ヨハネ12:49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
ヨハネ12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」
ヘブ10:26 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
ヘブ10:27 ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
† 神様は愛の戒めを守る被造物だけを残し、残りは全て火の池に焼かれます[266]。被造物が生き残ることができる唯一の方法は、戒めを守るだけです[267]。したがって、被造物が生き残れるようにする知恵が真の知恵であります[268]。戒めを守らせる知恵が真の知恵です[269]。戒めを守らせる知恵がすなわち命の木です[270]。
† 神様は戒めに基づいて私たちの言葉と行ないを裁かれます[271]。裁きを恐れなければ、むやみに言って行動します。むやみに言って行動すれば裁きを受けます[272]。言葉や行ないに気をつければ裁きを受けません[273]。裁きを恐れるのが知恵です。神様を恐れるのが知恵です。神様を恐れるのが命の木です。その実は命の木の果実であります[274]。すなわち愛です。命の木は愛の木です[275]。愛の木である主イエス様の模範に従うとき、私たちも愛の木になります[276]。十字架を背負って主イエス様に従うとき、私たちも愛の木になります[277]。
† 神様は愛の戒めに基づいて裁かれます。愛の戒めが裁きの基準です。愛が裁きの基準です[278]。愛が命の木の果実です[279]。神様を恐れるとき、私たちは裁きを恐れています。裁きを恐れるとき、私たちは神様と隣人を愛しています[280]。裁きを恐れるとき、私たちは命の木の果実を食べます[281]。裁きを恐れるとき、私たちは命の木になります。裁きを恐れるとき、私たちは十字架を背負います。神様の裁きを恐れるとき、私たちは戒めを守ります[282]。ですから、裁かれる神様を恐れることが真の知恵であります[283]。
† 神様の基準は戒めです。しかし、サタンは神様の基準を認めません[284]。サタンは自分の基準を立てます[285]。サタンは自分が裁きの基準となります[286]。サタンには、サタンに喜びを与えるのが善です[287]。サタンにとって、サタンに苦しみをもたらすものはすべて悪です[288]。隣人を踏みつけても欲を満たすことができれば、サタンには隣人を踏みにじるのが善です[289]。隣人が高くなって自分が低くなれば、サタンにはそれが悪です[290]。サタンの善は自分自身です[291]。自分自身を善と思う者は善悪知識の木を無視します。自分自身を善と思う者は戒めを無視します。自分自身を善と思う者は禁断の果実を食べます[292]。愛の戒めのために、彼は火の池に投げ込まれます。
† 戒めは神様の判断です[293]。神様の判断を認める者は戒めを守ります。彼は自分自身を善と悪の基準としません。彼は神様の戒めを善悪の基準とします[294]。自分に喜びになっても神様に悲しみになれば、彼はそれを悪として認めます[295]。自分に苦しんでも神様に喜びになれば、彼はそれを善と認めます[296]。彼は自分自身を善とは思わないのです[297]。彼には戒めが善です。彼は善悪知識の木を認めます。彼は戒めを認めます。彼は禁断の果実を食べません。彼は十字架を背負います。彼は自分の判断を否定します。愛の戒めのために、彼は永遠に生きます。
† 知恵が被造物となられました[298]。被造物は知恵が何であるかを目で見て手で触れます[299]。被造物は知恵が愛されるように神様と隣人を愛します[300]。被造物は知恵が憎むように罪悪を憎みます[301]。被造物は知恵に従います。被造物は知恵になります。被造物は命の木に従います。被造物は命の木になります[302]。命の木になった被造物は、隣人に命の木の果実を与えます[303]。命の木になった被造物は隣人に愛を与えます[304]。命の木の果実を受けた隣人が命の木を見ると、神様の形であります[305]。獣の形だった私たちは[306]、いつの間にか神様の形になっていました[307]。
[1] 創1:2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
[2] 創1:3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。
[3] 2コリ4:6 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
[4] 黙22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
黙22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
[5] 創2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
創2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
[6] ヨハネ8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
[7] ヘブ4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
ヘブ4:13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
[8] 黙20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
黙20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数 の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
[9] 詩89:14 義と公正は、あなたの王座の基。恵みとまことは、御前に先立ちます。
[10] 黙21:8 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」
[11] ガラ5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
ガラ5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、 派心、分裂、分派、
ガラ5:21 ねたみ、聆瓔、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
[12] 1コリ6:9 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
1コリ6:10 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。
[13] 1ヨハ3:4 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。
[14] エゼ22:23 次のような主のことばが私にあった。
エゼ22:24 「人の子よ。この町に言え。おまえは憤りの日にきよめられず、雨も降らない地である。
エゼ22:25 そこには預言者たちの陰謀がある。彼らは、獲物を引き裂きながらほえたける雄獅子のように人人を食い、富と宝を奪い取り、その町にやもめの數をふやした。
エゼ22:26 その祭司たちは、わたしの律法を犯し、わたしの聖なるものを汚し、聖なるものと俗なるものとを区別せず、汚れたものときよいものとの違いを教えなかった。また、彼らはわたしの安息日をないがしろにした。こうして、わたしは彼らの間で汚されている。
エゼ22:27 その町の首長たちは、獲物を引き裂いている狼のように血を流し、人人を殺して自分の利得をむさぼっている。
エゼ22:28 その町の預言者たちは、むなしい幻を見、まやかしの占いをして、しっくいで上塗りをし、主が語られないのに『神である主がこう仰せられる。』と言っている。
エゼ22:29 一般の人人も、しいたげを行ない、物をかすめ、乏しい者や貧しい者を苦しめ、不法にも在留異国人をしいたげた。
エゼ22:30 わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。
エゼ22:31 それで、わたしは彼らの上に憤りを注ぎ、激しい怒りの火で彼らを絶滅し、彼らの頭上に彼らの行ないを返した。―神である主の御告げ。―」
[15] 1テモ1:9 すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、
1テモ1:10 不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。
[16] マタイ25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。
マタイ25:42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
マタイ25:43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
[17] ヨハネ3:35 父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。
ヨハネ3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
[18] 1ヨハ3:14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。
[19] エゼ18:10 しかし、彼が子を生み、その子が無法の者で、人の血を流し、先に述べたことの一つさえ行なわず、
エゼ18:11 これらのことをしようともせず、かえって丘の上で食事をし、隣人の妻を汚し、
エゼ18:12 乏しい者や貧しい者をしいたげ、物をかすめ、質物を返さず、偶像を仰ぎ見て、忌みきらうべきことをし、
エゼ18:13 利息をつけて貸し、高利を取るなら、こういう者ははたして生きるだろうか。彼は生きられない。自分がこれらすべての忌みきらうべきことをしたのだから、彼は必ず死に、その血の責任は彼自身に帰する。
[20] ヨハネ11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
ヨハネ11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
[21] ロマ3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人人に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
[22] 詩33:5 主は正義と公正を愛される。地は主の恵みに満ちている。
[24] イザ6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
ルカ5:8 これを見たシモン․ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。
士13:22 それで、マノアは妻に言った。「私たちは神を見たので、必ず死ぬだろう。」
黙1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
創32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。
[25] 出33:19 主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
出33:20 また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
[26] レビ16:2 主はモ-セに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現われるからである。
[27] 出20:19 彼らはモ-セに言った。「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」
[28] ヨハネ1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に來ようとしていた。
[29] ヨハネ3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に來ているのに、人人は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
ヨハネ3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに來ない。
ヨハネ3:21 しかし、真理を行なう者は、光のほうに來る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
[30] マタイ15:18 しかし、口から出るものは、心から出て來ます。それは人を汚します。
マタイ15:19 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て來るからです。
マタイ15:20 これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」
[31] イザ45:7 わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。」
[32] 黙2:7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』
[33] ヨハネ12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」
[34] 創2:25 そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。
黙3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
[35] 創2:23 すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
[36] ロマ3:20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
[37] ロマ7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
[38] ロマ1:25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。ア-メン。
[39] マタイ5:27 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
マタイ5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
[40] ロマ13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。
[41] ロマ3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人人に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
[42] ロマ7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが來たときに、罪が生き、私は死にました。
ロマ7:10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
[43] ロマ8:1 こういうわけで、今は、キリスト․イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
ロマ8:2 なぜなら、キリスト․イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
[44] ガラ5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
[45] 申30:15 見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。
申30:16 私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その數はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。
[46] ヨハネ10:32 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
ヨハネ10:33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」
[47] ガラ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
ガラ5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
[48] レビ18:24 あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国国は、これらのすべてのことによって汚れており、
レビ18:25 このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。
[49] エレ4:14 エルサレムよ。救われるために、心を洗って悪を除け。いつまで、あなたの中には邪念が宿っているのか。
[50] 黙22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
黙22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
[51] 1コリ13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
[52] 黙20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ翔まれた。これが第二の死である。
[53] 黙21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
黙21:5 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
[54] ロマ8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
ロマ8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
ロマ8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
ロマ8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
[55] 1コリ15:25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
1コリ15:26 最後の敵である死も滅ぼされます。
ヘブ10:12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
ヘブ10:13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
[56] 1ヨハ4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
[57] 1ヨハ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
[58] 使徒4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
[59] 申30:11 まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。
申30:12 これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って來て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。
申30:13 また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って來て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。
申30:14 まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。
[60] ヨハネ14:15 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
[61] ロマ5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
[62] ヤコ1:13 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。
ヤコ1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
ヤコ1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
[63] 黙20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ翔まれた。これが第二の死である。
黙20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ翔まれた。
[64] ロマ9:15 神はモ-セに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
ロマ9:16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
ロマ9:17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。
ロマ9:18 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。
ロマ9:19 すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」
ロマ9:20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。
[65] 1ヨハ3:20 たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。
[66] エレ1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国国への預言者と定めていた。」
[67] ロマ8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人人を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
[68] ロマ1:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
[69] 2ペト3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
[70] ヨハネ3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
[71] ガラ3:17 私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無效とされたりすることがないということです。
[72] ガラ3:19 では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が來られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。
[73] 1コリ9:21 律法を持たない人々に対しては、―私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、―律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
[74] ガラ3:23 信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ翔められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
ガラ3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
ガラ3:25 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
[75] テト1:16 彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。
[76] ヤコ2:17 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
ヤコ2:18 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
ヤコ2:19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
[77] ヘブ10:26 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
ヘブ10:27 ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
[78] 1ヨハ5:16 だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人人に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。
[79] 民35:31 あなたがたは、死刑に当たる悪を行なった殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。
[80] ヘブ6:4 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
ヘブ6:5 神のすばらしいみことばと、後にやがて來る世の力とを味わったうえで、
ヘブ6:6 しかも堕落してしまうならば、そういう人人をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
[81] 民35:21 あるいは、敵意をもって人を手で打って死なせるなら、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は殺人者である。その血の复讐をする者は、彼と出会ったときに、その殺人者を殺してもよい。
[82] 2ペト2:12 これらの者は、捕らえられ、ほふられるために生まれてきた、分別のない動物のようなもので、自分が知りもしないことをそしり、その不義の報いとして罰を受け、必ず滅ぼされてしまうのである。
[83] 黙13:15 それから、その獣の像に息を吹き翔んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
黙13:16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
黙13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
[84] 創1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
創1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
[85] 詩49:20 人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。
[86] 2コリ5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
2コリ5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
[87] 創3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
[88] ヨハネ15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
ヨハネ15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人人はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
[89] 1ペト1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
[90] エレ2:19 あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める。だから、知り、見きわめよ。あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦苦しいことかを。―万軍の神、主の御告げ。―
[91] 黙12:7 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
[92] 1ペト1:12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人人を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。
1ペト1:13 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス․キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
[93] 黙21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
[94] ロマ5:14 ところが死は、アダムからモ-セまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人人をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。
[95] 1ペト1:20 キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。
[96] ロマ8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に來るものも、力ある者も、
ロマ8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト․イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
[97] ヘブ1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
[98] 王上8:39 あなたご自身が、あなたの御住いの所である天で聞いて、赦し、またかなえてください。ひとりひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心を知っておられます。あなただけがすべての人の子の心を知っておられるからです。
[99] イザ46:9 遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。
イザ46:10 わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。
[100] ロマ9:11 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
ロマ9:12 「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。
ロマ9:13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
[101] ダニ4:34 その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って來た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代代限りなく続く。
ダニ4:35 地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押えて、「あなたは何をされるのか。」と言う者もいない。
[102] 王上13:2 すると、この人は、主の命令によって祭壇に向かい、これに呼ばわって言った。「祭壇よ。祭壇よ。主はこう仰せられる。『見よ。ひとりの男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちをいけにえとしておまえの上にささげ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」
[103] ロマ9:20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。
ロマ9:21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
[104] 詩139:16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日日が、しかも、その一日もないうちに。
[105] ヨハネ21:21 ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」
ヨハネ21:22 イエスはペテロに言われた。「わたしの來るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
[106] ルカ22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
ルカ22:43 すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。
ルカ22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。
[107] 1ヨハ5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
1ヨハ5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
1ヨハ5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。
[108] マタイ16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて來たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて來なさい。
マタイ16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
マタイ16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
[109] ロマ3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人人に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
[110] ガラ3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。
[111] マタイ27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
[112] 創22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
創22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
[113] 1ヨハ3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、―事実、いま私たちは神の子どもです。―御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
[114] イザ53:12 それゆえ、わたしは、多くの人人を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに數えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
[115] テト2:14 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。
[116] ヨハネ6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
ヨハネ6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
[117] ロマ7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
[118] 1ヨハ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
[119] ロマ3:20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
[120] ロマ6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト․イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
ロマ6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
ロマ6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
[121] ヨハネ3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ヨハネ3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
[122] コロ2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
コロ2:12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
[123] コロ1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
[124] マタイ10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
マタイ10:38 自分の十字架を負ってわたしについて來ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
マタイ10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
[125] サム上16:14 主の霊はサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおびえさせた。
[126] サム上15:23 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
[127] ヨハネ9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に來ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
ヨハネ9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人人が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
ヨハネ9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
[128] 創3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
[129] 雅8:6 私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。
雅8:7 大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。
[130] 1ヨハ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
1ヨハ4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
[131] ヨハネ19:10 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」
ヨハネ19:11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」
[132] ヨハネ12:31 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。
ヨハネ12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
[133] 1ヨハ3:9 だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。
[134] 1コリ15:25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
1コリ15:26 最後の敵である死も滅ぼされます。
[135] ロマ7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
ロマ7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
ロマ7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
ロマ7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
[136] エフェ2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
エフェ2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
[137] 哀3:33 主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。
[138] ヘブ12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
ヘブ12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人人に平安な義の実を結ばせます。
[139] 詩119:67 苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。
[140] 詩119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
[141] 出26:31 青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければならない。
[142] ロマ7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
ロマ7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
[143] ガラ5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
ガラ5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、 派心、分裂、分派、
ガラ5:21 ねたみ、聆瓔、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
[144] ヘブ10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
ヘブ10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
[145] ロマ8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
ロマ8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
[146] 1ヨハ1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1ヨハ1:2 ―このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。―
[147] ヨハネ15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
ヨハネ15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人人はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
[148] ヨハネ4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
ヨハネ4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
ヨハネ4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに來なくてもよいように、その水を私に下さい。」
[149] ルカ22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。
[150] ヨハネ7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに來て飲みなさい。
ヨハネ7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
ヨハネ7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
[151] ヨハネ6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
ヨハネ6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
ヨハネ6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
[152] ロマ8:1 こういうわけで、今は、キリスト․イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
ロマ8:2 なぜなら、キリスト․イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
[153] 1ヨハ3:23 神の命令とは、私たちが御子イエス․キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。
[154] ヨハネ12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」
[155] ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに來ることはありません。
[156] ヨハネ3:35 父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。
ヨハネ3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
[157] ルカ15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
ルカ15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
[158] 創2:25 そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。
黙3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
[159] 黙5:9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
黙5:10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
[160] ルカ15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
ルカ15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
[161] エレ23:23 「主は言われる、わたしはただ近くの神であって、遠くの神ではないのであるか。
エレ23:24 主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。
[162] ヘブ1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
[163] 黙4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に來られる方。」
[164] エフェ4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。
[165] ロマ8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に來るものも、力ある者も、
ロマ8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト․イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
[166] ヨブ38:4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
[167] コロ3:11 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。
[168] イザ40:15 見よ。国国は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島島を細かいちりのように取り上げる。
イザ40:16 レバノンも、たきぎにするには、足りない、その獣も、全焼のいけにえにするには、足りない。
イザ40:17 すべての国国も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。
[169] イザ40:25 「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか。」と聖なる方は仰せられる。
イザ40:26 目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を數えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。
[170] コロ1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
コロ1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
[171] 1コリ8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス․キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。
[172] ネヘ9:6 「ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。
[173] 使徒17:28 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。
[174] ヨブ11:7 あなたは神の深さを見抜くことができようか。全能者の極限を見つけることができようか。
ヨブ11:8 それは天よりも高い。あなたに何ができよう。それはよみよりも深い。あなたが何を知りえよう。
[175] ヨハネ10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
ヨハネ10:30 わたしと父とは一つです。」
[176] 代下6:18 それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。
[177] 1テモ6:16 ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。轝れと、とこしえの主権は神のものです。ア-メン。
[178] エズ6:12 エルサレムに御名を住まわせられた神は、この命令をあえて犯しエルサレムにあるこの神の宮を破壊しようとして手を出す王や民をみな、くつがえされますように。私ダリヨスは命令を下す。まちがいなくこれを守れ。」
[179] ホセ12:3 彼は母の胎にいたとき、兄弟を押しのけた。彼はその力で神と争った。
ホセ12:4 彼は御使いと格闘して勝ったが、泣いて、これに願った。彼はベテルで神に出会い、その所で神は彼に語りかけた。
[180] 使徒7:35 『だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか。』と言って人人が拒んだこのモ-セを、神は柴の中で彼に現われた御使いの手によって、支配者また解放者としてお遣わしになったのです。
[181] 創3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
[182] 創18:1 主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。
[183] 使徒7:30 四十年たったとき、御使いが、モ-セに、シナイ山の荒野で柴の燃える炎の中に現われました。
使徒7:38 また、この人が、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会において、生けるみことばを授かり、あなたがたに与えたのです。
[184] ヨシュ5:14 すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、來たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
ヨシュ5:15 すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。
[185] 士6:20 すると、神の使いはギデオンに言った。「肉と種を入れないパンを取って、この岩の上に置き、その吸い物を注げ。」それで彼はそのようにした。
士6:21 すると主の使いは、その手にしていた杖の先を伸ばして、肉と種を入れないパンに触れた。すると、たちまち火が岩から燃え上がって、肉と種を入れないパンを焼き尽くしてしまった。主の使いは去って見えなくなった。
士6:22 これで、この方が主の使いであったことがわかった。それで、ギデオンは言った。「ああ、神、主よ。私は面と向かって主の使いを見てしまいました。」
士6:23 すると、主はギデオンに仰せられた。「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」
[186] 王上19:12 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。
王上19:13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」
[187] ルカ20:35 次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から复活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。
ルカ20:36 彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、复活の子として神の子どもだからです。
[188] 詩130:3 主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。
[189] 黙20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ翔まれた。これが第二の死である。
[190] ルカ12:47 主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。
ルカ12:48 しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。
[191] 黙20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
[192] 1ヨハ4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
1ヨハ4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
[193] マタイ22:32 『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」
[194] エフェ4:18 彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。
[195] 1テモ5:6 自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです。
[196] 1コリ15:44 血肉の(プシキコス魂的な)からだで蒔かれ、御霊に属する(プネウマチコス霊的な)からだによみがえらされるのです。血肉の(プシキコス魂的な)からだがあるのですから、御霊の(プネウマチコス霊的な)からだもあるのです。
[197] マタイ10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
[198] エフェ2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―
エフェ2:6 キリスト․イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
[199] 黙22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
[200] エフェ2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
エフェ2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
[201] コロ2:13 あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
[202] ヨハネ5:29 善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。
[203] 黙20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ翔まれた。
[204] ヘブ10:4 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
[205] ロマ5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
[206] ヘブ11:39 この人人はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。
ヘブ11:40 神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。
[207] 詩89:48 いったい、生きていて死を見ない者はだれでしょう。だれがおのれ自身を、よみの力から救い出せましょう。セラ
[208] 1コリ15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
[209] マタイ27:51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
[210] 使徒1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
[211] 1ヨハ5:18 神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。
[212] 1コリ15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
1コリ15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
1コリ15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
[213] フィリ2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
フィリ2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
[214] ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから來られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
[215] ヨハネ14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。
[216] 1コリ15:44 血肉の(プシキコス魂的な)からだで蒔かれ、御霊に属する(プネウマチコス霊的な)からだによみがえらされるのです。血肉の(プシキコス魂的な)からだがあるのですから、御霊の(プネウマチコス霊的な)からだもあるのです。
[217] フィリ3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
[218] ロマ8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将來私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
[219] 1ヨハ3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
[220] 1コリ15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
1コリ15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
1コリ15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
[221] 黙1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
[222] 黙1:14 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
黙1:15 その足は、爐で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。
黙1:16 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
[223] マルコ9:5 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モ-セのために一つ、エリヤのために一つ。」
マルコ9:6 実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。
[224] 2ペト1:16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス․キリストの力と來臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
2ペト1:17 キリストが父なる神から轝れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
[225] 2コリ3:15 かえって、今日まで、モ-セの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
2コリ3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
2コリ3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
2コリ3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の?きによるのです。
[226] ヘブ12:18 あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、
ヘブ12:19 ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。
[227] 出20:18 民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。
出20:19 彼らはモ-セに言った。「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」
[228] マタイ23:37 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
[229] ダニ10:9 私はそのことばの声を聞いた。そのことばの声を聞いたとき、私は意識を失って、うつぶせに地に倒れた。
[230] 使徒12:7 すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。
[231] ルカ9:30 しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモ-セとエリヤであって、
ルカ9:31 栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。
[232] 1コリ15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
1コリ15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
[233] 1コリ15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
[234] ルカ9:36 この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。
[235] 2コリ12:1 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。
2コリ12:2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に―肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。―第三の天にまで引き上げられました。
[236] 2コリ12:4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。
[237] 黙5:9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
[238] マタイ16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて來ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。
マタイ16:28 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人人の中には、人の子が御国とともに來るのを見るまでは、決して死を味わわない人人がいます。」
[239] マタイ25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って來るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
[240] ヨハネ17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。
[241] ヨハネ17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
[242] 黙21:24 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に來る。
[243] ヘブ1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
[244] 雅8:6 私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。
雅8:7 大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。
[245] コロ1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
[246] 1コリ15:25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
1コリ15:26 最後の敵である死も滅ぼされます。
[247] 1コリ15:28 しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。
[248] エフェ1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、
エフェ1:10 時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、
[249] ヨブ35:6 あなたが罪を犯しても、神に対して何ができよう。あなたのそむきの罪が多くても、あなたは神に何をなしえようか。
ヨブ35:7 あなたが正しくても、あなたは神に何を与ええようか。神は、あなたの手から何を受けられるだろうか。
ヨブ35:8 あなたの悪は、ただ、あなたのような人間に、あなたの正しさは、ただ、人の子に、かかわりを持つだけだ。
[250] 黙1:8 神である主、常にいまし、昔いまし、後に來られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
[251] ヨハネ5:22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
ヨハネ5:23 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。
[252] ヨハネ3:35 父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。
ヨハネ3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
[253] 黙12:10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
黙12:11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
[254] 黙6:9 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。
黙6:10 彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の复讐をなさらないのですか。」
黙6:11 すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。
[255] 1ペト1:12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人人を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。
1ペト1:13 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス․キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
[256] ロマ8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
ロマ8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
[257] ガラ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
ガラ5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
ガラ5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
[258] 2コリ12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
[259] 1コリ9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。
[260] ガラ3:2 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。
ガラ3:3 あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。
[261] ヤコ2:21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。
ヤコ2:22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、
ヤコ2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
ヤコ2:24 人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
[262] ダニ12:13 あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」
[263] 2テモ4:6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに來ました。
2テモ4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
2テモ4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
[264] ロマ8:1 こういうわけで、今は、キリスト․イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
ロマ8:2 なぜなら、キリスト․イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
[265] ロマ6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
ロマ6:15 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
[266] マラ3:5 「わたしは、さばきのため、あなたがたのところに近づく。わたしは、ためらうことなく証人となり、呪術者、姦淫を行なう者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、在留異国人を押しのけて、わたしを恐れない者たちに、向かう。―万軍の主は仰せられる。―
[267] ルカ10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
ルカ10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
ルカ10:27 すると彼は答えて言った。「『心を所くし、思いを所くし、力を所くし、知性を所くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
ルカ10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
[268] コロ2:20 もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、
コロ2:21 「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。
コロ2:22 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。
コロ2:23 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。
[269] ガラ4:8 しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本來は神でない神 の奴隷でした。
ガラ4:9 ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
ガラ4:10 あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。
ガラ4:11 あなたがたのために私の勞したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています。
[270] コロ2:8 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。
コロ2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
コロ2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
[271] マタイ5:21 昔の人人に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
マタイ5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
[272] マタイ12:34 まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。
マタイ12:35 良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。
マタイ12:36 わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。
マタイ12:37 あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」
[273] ヤコ3:1 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。
ヤコ3:2 私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。
[274] ガラ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
ガラ5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
ガラ5:24 キリスト․イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
[275] ヨハネ15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
ヨハネ15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
[276] 1ペト2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
1ペト2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
1ペト2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
[277] マタイ10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
マタイ10:38 自分の十字架を負ってわたしについて來ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
マタイ10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
[278] 1ヨハ3:14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。
1ヨハ3:15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。
[279] ロマ6:20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
ロマ6:21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
ロマ6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
[280] 創39:9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」
[281] イザ66:2 これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。―主の御告げ。―わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。
[282] エゼ9:4 主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人人の額にしるしをつけよ。」
エゼ9:5 また、私が聞いていると、ほかの者たちに、こう仰せられた。「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない、あわれんではならない。
エゼ9:6 年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、あのしるしのついた者にはだれにも近づいてはならない。まずわたしの聖所から始めよ。」そこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた。
[283] イザ22:12 その日、万軍の神、主は、「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ。」と呼びかけられたのに、
イザ22:13 なんと、おまえたちは樂しみ喜び、牛を殺し、羊をほふり、肉を食らい、ぶどう酒を飲み、「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから。」と言っている。
イザ22:14 そこで万軍の主は、私の耳を開かれた。「この罪は、おまえたちが死ぬまでは決して赦されない。」と、万軍の神、主は仰せられた。
[284] 創3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
創3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
[285] ヨブ1:8 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
ヨブ1:9 サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
ヨブ1:10 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。
ヨブ1:11 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」
[286] イザ14:12 暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国国を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
イザ14:13 あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星星のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
イザ14:14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』
[287] 王上21:7 妻イゼベルは彼に言った。「今、あなたはイスラエルの王権をとっているのでしょう。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。この私がイズレエル人ナボテのぶどう畑をあなたのために手に入れてあげましょう。」
王上21:8 彼女はアハブの名で手紙を書き、彼の印で封印し、ナボテの町に住む長老たちとおもだった人人にその手紙を送った。
王上21:9 手紙にはこう書いていた。「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出してすわらせ、
王上21:10 彼の前にふたりのよこしまな者をすわらせ、彼らに『おまえは神と王をのろった。』と言って証言させなさい。そして、彼を外に引き出し、石打ちにして殺しなさい。」
[288] 王上18:16 そこで、オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会うためにやって來た。
王上18:17 アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言った。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」
王上18:18 エリヤは言った。「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。
[289] マルコ12:38 イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、
マルコ12:39 また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。
マルコ12:40 また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」
[290] マルコ15:9 そこでピラトは、彼らに答えて、「このユダヤ人の王を釈放してくれというのか。」と言った。
マルコ15:10 ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。
マルコ15:11 しかし、祭司長たちは群衆を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた。
[291] エゼ18:26 正しい人が自分の正しい行ないから遠ざかり、不正をし、そのために死ぬなら、彼は自分の行なった不正によって死ぬ。
エゼ18:27 しかし、悪者でも、自分がしている悪事をやめ、公義と正義とを行なうなら、彼は自分のいのちを生かす。
エゼ18:28 彼は反省して、自分のすべてのそむきの罪を悔い改めたのだから、彼は必ず生き、死ぬことはない。
エゼ18:29 それでも、イスラエルの家は、『主の態度は公正でない。』と言う。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。
[292] エゼ28:17 あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。
[293] イザ55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ。―
イザ55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
[294] 王上21:2 アハブはナボテに次のように言って頼んだ。「あなたのぶどう畑を私に譲ってもらいたい。あれは私の家のすぐ隣にあるので、私の野菜畑にしたいのだが。その代わりに、あれよりもっと良いぶどう畑をあげよう。 もしあなたがそれでよいと思うなら、それ相当の代価を銀で支払おう。」
王上21:3 ナボテはアハブに言った。「主によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは。」
[295] サム上26:11 私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。さあ、今は、あの枕もとにある槍と水差しとを取って行くことにしよう。」
[296] 使徒20:23 ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。
使徒20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
[297] マタイ15:3 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
マタイ15:4 神は『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言われたのです。
マタイ15:5 それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、
マタイ15:6 その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。
[298] ヘブ2:14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
ヘブ2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人人を解放してくださるためでした。
ヘブ2:16 主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
[299] 1ヨハ1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1ヨハ1:2 ―このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。―
[300] 1ヨハ3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
[301] 黙2:6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
[302] 黙22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
黙22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
[303] マルコ16:17 信じる人人には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、
マルコ16:18 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
[304] 使徒7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
使徒7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
[305] ガラ4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
[306] エフェ2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
エフェ2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
[307] テト3:3 私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快樂の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。
テト3:4 しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、
テト3:5 神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
'2 存在のお召し' 카테고리의 다른 글
39 再び本郷エデン至聖所に戻る道:メシヤ (0) | 2025.05.23 |
---|---|
38 アダムたち (0) | 2025.05.23 |
36 アダムの原材料である土地を呪われました (0) | 2025.05.23 |
35 神様は蛇と女が互いに敵になるようにされました (0) | 2025.05.23 |
34 サタンがちりを食べるという御言葉はどういう意味なのか (0) | 2025.05.23 |