Ω 第1の復活の資格 |
前提 復活には命の復活と裁きの復活があります[1]。命の復活の中にはさらにすぐれた復活があります。さらにすぐれた復活は第1の復活です。第1の復活ではない命の復活を第2の命の復活と表現することにします。 |
ルカ20:35 次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から复活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。 ルカ20:36 彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、复活の子として神の子どもだからです。 † 復活すると御使いのようになります。御使いたちと御使いのようになった聖徒たちは永遠に生きます。 黙20:4 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。 黙20:5 そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の复活である。 黙20:6 この第一の复活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。 † 殉教証人だけが第1の復活によって甦ります。 ヘブ11:35 女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。 † 殉教証人だけがさらにすぐれた復活によって甦ります[2]。 ヘブ11:13 これらの人人はみな、信仰の人人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 ヘブ11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。 ヘブ11:15 もし、出て來た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 ヘブ11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 † 殉教証人だけが新しいエルサレム都を相続します。殉教証人だけが1000年王国を支配します。 マタイ19:27 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」 マタイ19:28 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って來たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。 マタイ19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。 † 殉教証人だけが1000年王国を相続します。 ロマ8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 ロマ8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 ロマ8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将來私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 † 殉教証人だけ相続者です。殉教証人だけ1000年王国を相続します。主イエス様のために苦しみを受けた者だけ1000年王国を相続します。 1コリ15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。 1コリ15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。 1コリ15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 1コリ15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 † 律法を破った罪を死が握ります。死に打ち勝つと復活変化します。復活変化したという意味は罪に勝ったという意味です。罪に勝ったという意味は律法を守ったという意味です。死に至るまで律法を守った者を殉教証人と呼びます。死に至るまで神様と隣人を愛した者を殉教証人と呼びます。神様は殉教証人の数を定められました。定められた数の殉教証人が死に打ち勝つと、律法が守ることができるという事実すなわち戒めの真実さが証明されます。 ロマ8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト․イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 † 聖霊神様を通して死に勝ち、復活変化します。 黙12:10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。 黙12:11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。 † 神様が定められた戒めの限界は命を捨てることです[3]。死に至るまで神様と隣人を愛した者は本当に戒めをよく守ったのです。殉教した者は本当に戒めをよく守ったのです。殉教証人を通して戒めの真実さが証明されます。殉教証人を通してサタンが敗北します。 |
犯罪した者は死ななければなりません[4]。御子は父に捨てられました[5]。それでも御子は再び生き返られました[6]。御子ご自身が犯罪されたわけではないからです[7]。死ぬためには犯罪しなければなりません。御子は犯罪されませんでした[8]。したがって、御子は死にません。御子は私たちの罪を代わりに背負っただけです。御子は罪人とみなされただけです。 御子は犯罪しません[9]。しかし、私たちは犯罪します[10]。私たちが復活できる理由は、御子の血で罪の赦しを受けたからです。私たちが犯罪しないからではありません[11]。すべての聖徒が復活します。しかし殉教証人だけが第1の復活によって甦ります。 戒めを守り、罪に打ち勝つ者だけが復活変化します。それなら復活変化するすべての者が完全な者たちであるという意味でしょうか。そうではありません。彼らが全く欠点のない人たちであるという意味ではありません[12]。人が見る時は欠点がないように見えるかもしれません[13]。しかし、神様がご覧になる時はそうではありません[14]。聖霊神様を祀ったペテロも偽善をしました[15]。パウロとバルナバも争いました[16]。しかし、彼らは復活します。完全でなければどのように戒めを守ったといえるでしょうか。戒めを守ったことでなければ、どのように復活変化できるのでしょうか[17]。 戒めは神様と隣人を愛するのです[18]。したがって復活変化する者は、神様と隣人を愛する者たちです。私たち自身の力では隣人を愛することはできません[19]。聖霊神様を祀ったときだけ、私たちは隣人を愛することができます[20]。しかし、私たちが愛しようとしない限り、神様は私たちを無理強いに愛するようにされません[21]。言い換えれば、私たちが愛しようとしなければなりません[22]。聖霊神様は、神様を愛しようとする者だけが神様を愛するようにされます[23]。 神様がアダムに求められる愛の限界は命を捨てることです[24]。愛で命を捨てることでなければ、そのような死は何の価値もないでしょう[25]。しかし愛するから命を捨てるのなら、アダムが与えることができる最高の愛を与えるのです[26]。愛で命を捨てることが、神様がアダムに求められる服従の限界です[27]。神様はアダムにそれ以上を求められません[28]。自分のすべての所有と命の程度だけ捨てても十分だと神様が考えてくださるのです。 到達したい場合は、誰でもこの限界に達することができます。この限界に達できない人はいません。私たちの力で到達するのではないからです。聖霊神様が私たちに到達させてくださるのだからです[29]。本人が死に至るまで隣人を愛したいなら、前科者でも病人でも乞食でも奴隷でも誰でも死に至るまで隣人を愛することができます。私たちへの神様の愛が不足しているので、私たちが神様を不足して愛するのではありません[30]。十字架の愛が少ないので、私たちが神様を少なく愛するのではありません[31]。私たちが神様を愛しようとしないので、神様を愛することができないのです[32]。 主イエス様を愛するのは、主イエス様が守るよう命じられる戒めを守ることです[33]。その戒めはすなわち神様と隣人を愛するのです[34]。主イエス様を愛しているので命を捨てるなら、欠点があっても、その欠点は罪と認められません[35]。彼は戒めを守る者なのです[36]。愛する中に現れるようになる欠点だから容認されるのです[37]。中心にある愛をうまく表現できないだけなのです[38]。彼の欠点は、彼が神様と隣人を愛するのを防ぐことができないという意味です[39]。その証拠として[40]、彼は彼の命を与えます[41]。 |
[1] ヨハネ5:29 善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。
[2] 黙2:10 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
黙2:11 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』
[3] ヨハネ15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
[4] ロマ6:23 罪から來る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト․イエスにある永遠のいのちです。
[5] イザ53:12 それゆえ、わたしは、多くの人人を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに數えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
[6] 使徒2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
[7] 2コリ5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
[8] ヘブ4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
[9] 1ヨハ3:5 キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。
[10] 代下6:36 彼らがあなたに対して罪を犯したため―罪を犯さない人間はひとりもいないのですから―あなたが彼らに対して怒り、彼らを敵に渡し、彼らが、遠くの地、あるいは近くの地に、捕虜として捕われていった場合、
[11] イザ64:6 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。
[12] 1テモ1:15 「キリスト․イエスは、罪人を救うためにこの世に來られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
1テモ1:16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス․キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人人の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。
[13] フィリ3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
フィリ3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
フィリ3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
[14] 1コリ4:3 しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。
1コリ4:4 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。
[15] ガラ2:12 なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから來る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が來ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。
ガラ2:13 そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き翔まれてしまいました。
ガラ2:14 しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。
[16] 使徒15:37 ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。
使徒15:38 しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。
使徒15:39 そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。
使徒15:40 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。
[17] ロマ4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。
ロマ4:4 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
ロマ4:5 何の働きもない者が、不敬嶺な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
ロマ4:6 ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。
ロマ4:7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。
ロマ4:8 主が罪を認めない人は幸いである。」
[18] マルコ12:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
マルコ12:30 心を所くし、思いを所くし、知性を所くし、力を所くして、あなたの神である主を愛せよ。』
マルコ12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
[19] 1ヨハ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
1ヨハ4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
[20] ロマ5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
1コリ2:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
1コリ2:12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。
[21] ロマ1:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
[22] 2コリ6:1 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。
[23] ヤコ4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
[24] エフェ5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
[25] 1コリ13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
[26] ヨハネ15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
[27] マタイ22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
マタイ22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
マタイ22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
マタイ22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
[28] マタイ10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
マタイ10:38 自分の十字架を負ってわたしについて來ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
マタイ10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
[29] ロマ8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
ロマ8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
[30] ヤコ1:13 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。
ヤコ1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
ヤコ1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
[31] フィリ3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って來たし、今も淚をもって言うのですが、多くの人人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
フィリ3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
[32] 箴8:17 わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。
[33] ヨハネ14:15 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
[34] 2ヨハ1:5 婦人よ。ここにお願いしたいことがある。それは、新しい戒めを書くわけではなく、初めから持っていた戒めなのであるが、わたしたちは、みんな互に愛し合おうではないか。
[35] ルカ7:47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
ルカ7:48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
[36] 1ヨハ5:18 神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。
[37] ロマ4:6 ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。
ロマ4:7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。
ロマ4:8 主が罪を認めない人は幸いである。」
[38] ガラ4:15 それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。
ガラ4:16 それでは、私は、あなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。
[39] 1ヨハ3:6 だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。
[40] フィリ2:30 なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。
[41] 1ヨハ3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
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